邪
魔
な
広
告
よ け ス ペ ー ス で す。
2005年2月28日(月)
<<馬鹿止め>>
27日夜は新宿に泊まり、28日は日大でセミナー。代数幾何学やトポロジー
の難しい講演を3つばかり聞いて、夜遅く京都に戻る。行きの新幹線の中では
Simon Singh, "Fermats Letzter Satz"に読み耽り、帰りの新幹線の中では代
数幾何学のお勉強に励む。行きと帰りのこの違いは、日大セミナーが学習意欲
への絶大なる刺激効果がある事を表している。しかし、この効果が何日持続す
るかは不明。
たまたま私が今ひっくり返したり突っついたりしている2,3の代数幾何 学の上級者向け教科書は、どれも親切な書き方はしておらず、と言うよりは むしろ私には馬鹿が参入して来るのを食い止めるべく積極的に不親切な書き方 をしているように思えるぐらいで、「馬鹿止め」を食らわされている私として はなかなか大変である。
2005年2月26日(土)
<<嘘上級の消滅>>
ゲーテ春の短期講座2回目。今日は清少納言さまが登場し、短期講座に
は出てない謎の旅行会社社員と輝くフリータ氏を休憩時間に呼び寄せ、4月
からの夏学期にどのコースを取るかについての鳩首談義。先学期の「上級1クラス」
は上級レベルに「なりたい」中級レベルの生徒を無理矢理押し込んだ「嘘上級」だっ
たのだが、来学期はこのクラスが消滅し、既に上級レベルに達している生徒の
ための「上級2クラス」だけになるとか。「上級2クラス」は冗談抜きで
ハイレベルなので大変だが、皆で大挙して押しかければ「レベルが薄まって」
我々に丁度良くなるのではないか。いやいや、そんな風呂の湯加減みたいな
調子に行くものか。この際「中級落ち」するのも悪くないが、それにも色々問題
があって云々。
「大挙して押しかける」にしても、謎の旅行会社社員も仕事が忙しくなって きて、次回講座が受講できるかどうか微妙。最近ご無沙汰の元塾屋の再登板も 難しいようだし、さらには清少納言さまも何だかやる気が無くなってきたよう な発言をし始めた。遊びの司令塔が降りてどうするんだよ、と喉元まで 出掛った言葉を呑み込む。 そういえば、数学者になりたかった技術者氏も近頃とんと姿を見せない。 かくして、ひとりまたひとりと姿を消してゆくって感じだけど、さて、4月から はどうなることやら。
夜は四条烏丸大丸百貨店で買い物など。明日から東京出張。帰宅は月曜日 の深夜の予定。
2005年2月25日(金)
<<根がチンピラ>>
午前中はゴミ論文の修正を少しやってから出勤。午後は、4月から院生のO君
とH. Matsumura "Commutative ring theory"ゼミ。私はグロタンディエックも
理解できなかったというM. Nagata "Local rings"(の日本語版)を愛読書に
して育ったので(凄いでしょう。えっへん!)、"Local rings"よりも後で
出版された Matsumura は必要なところをつまみ食いするだけですましてきた。だから1
ページ目からじっくり読んでいくO君とのゼミは、私にとっても良い勉強の機
会である。
帰宅途中の電車の中で、夢見るH先生ご推薦のグロタンディエックの伝記 的記事を読み終える。中年以降のグロタンディエックは、数学者社会における スノビズムや競争主義、権力志向を繰り返して批判し、それが如何に数学にお ける創造性や新たな発展を阻害しているかを訴えていたようである。そういえ ばジーゲルなども、ゲッチンゲン大学の数学教室では自分の業績を鼻にかけた 尊大な立ち振る舞いをする教授が多くて我慢ならなく思っていた、というよう な記事をどこかで読んだ覚えがある。子供のような純粋な好奇心と発見に対す る素朴な悦び。それが全てでなければならない、と。しかし、一握りの功成り 名を挙げた大先生だけが何か言ったところで、どうにかなるものでもないと思 うけど。
例えば昔良い仕事をして偉いと目されている数学者が、自分よりも格下の 数学者に対して何かにつけて尊大な態度を取ったとしよう。では、「格下の数 学者」達は、露骨に「あんたねえ、昔ちょっといい仕事したからって、それをい つまでも鼻に掛けてエラそうにして、アホっちゃうの?あんたが偉いのはわか るけど、だからと言ってあんたにそんな態度取られる筋合いは無いと思うんや けどね」という態度に出るかというと、決してそうではないと思う。それは、 駄目な数学者のやっかみのように思われるのが癪だからかも知れないし、偉い 数学者の言う事にはただひれ伏すしかないという、ある種のマインド・コント ロールがかかっているからかも知れない。かくして数学者として偉いことが 「優れた数学的能力によって良い発見をした」という以上に何か特別な意味を 持つと勘違いしている数学者は永久に野放しにされ、矯正の機会は己の愚 かさや格好悪さに自分で気づく場合に限られる。
しかし、一般に数学では誰が偉いかがはっきり分かるので、偉い数学者は それなりに皆の敬意を集めて然るべく大事にされる。そして適切な敬意以上の ものを周りの人々に求める「勘違い数学者」は(少なくとも日本では)少数で はないかと思う。それと、私の場合数学者社会の外で暮らしていた時期が長かっ たこともあって根がチンピラだから、「勘違い数学者」に対しては割合平気で 「あんたアホちゃうの?」式の態度を取る傾向があるような気がするな。 それで本人が「偉い数学者にふさわしい鷹揚でかつ謙虚な立ち振る舞い」 を身に着けることができたら結構な事じゃないの、なーんてね。 しかしあまり露骨にやらないところが年の功というか、加齢に伴う人格崩壊の兆し かしら。
夜は久々にスポーツクラブ。若い頃は恥ずかしくて出来なかった エアロビをやってみた。些細な事に無意味な含羞を抱かなくなったのも、 加齢に伴う人格崩壊の兆し。
2005年2月24日(木)
<<生々しい話>>
昼頃に山科区内で野暮用。それ以外は自宅や山科駅前SBUXなどで夕方まで
ゴミ論文の校正や修正作業に励む。夜もゴミ論文修正作業など。合間合間の逃
避活動として、夢見るH先生ご推薦グロタンディエックの伝記的記事を読む。
以下は学生時代に何故か宇宙物理専攻の先輩に聞いた話。グロタンディエッ クが位相線形空間の研究に飽きて代数幾何学に転向しようと思い、難解さで知 られる可換環論のテキスト M. Nagata "Local rings"に取り組んだ。ところが 天才グロタンディエックの頭脳をもってしてもさっぱりわからない。 困り果てたグロタンディエックは、 「もういい。あとは自分で考えるさ」とスキーム理論を作りEGAを書き上げ た。
この話が事実かどうかはちょっと疑わしいけれど、"local rings"とEGA の記述スタイルの違いや、グロタンディエックが 本を読んでちまちま勉強するよりも自分のスタイル でぐいぐい考えてゆく方が得意だった事を思うと、 実によくできた話だと思う。
上の話にはもう少し続きがあって、私にとってはそちらの方が面白く、ま た信憑性が高く思えるのだが、ちょっと生々しい話なのでここには書けない。
2005年2月23日(水)
<<キーッとなる>>
午前中は自宅と山科区内で少し野暮用をしてから出勤。午後は修士論文公聴会、
および判定会議など。帰宅途中に山科駅前SBUXで一服しながら夢見るH先
生ご推薦のグロタンディエックの記事の第一部を読み終える。夜はゴミ論文の
校正を少しと諸々の逃避行動。
現役の時のエネルギッシュなグロタンディエックを一度見てみたかったも のだと思うし、現在76歳のグロ爺さんに会うのも悪くないなとも思う。偉い 数学者も色々で、岡潔は突然わけのわからない事で人を怒鳴り付けたというか ら結構おっかない。それ以外にも、偉くて怖くて近寄らない方が良さそうな数 学者の名前なんてすぐに何名か思い浮かぶ。 では偉い数学者は皆怖いのかというと必ずしもそうでも無さそうである。例え ばHerzog先生などはどう見ても気のいいオッサンではないか。日頃の怖さほども 偉くない数学者っていうのも、捜せば沢山居るかもしれない。
だから、普段は借りてきた猫のように大人しいが何かの拍子に突然目が釣り上がっ てキーッとなる数学者(日本の数学者には珍しくないタイプである)を見ると 「あ、この人は偉いんだ」と錯覚したり、この人は怖くないからあまり偉くな いのだろうという風に考え違いをしてみたり、私も数学者として偉くなるには もっと怖くならないといけないななどと勘違いしがちな私は、よく注意して自 らを戒めないといけないな。
それにしても、グロタンディエックが人格的に怖い人かどうかは、これま で色々伝記的記事を読んでみた限りではよくわからない。
2005年2月22日(火)
<<水に流す>>
午前中はゴミ論文の校正。それから山科区内某飲食店において、K川先生から
色々論評を聞いていた牛丼の実地調査を行う。なるほどこの味はあの言葉に対
応するのかという具合に、色々納得してから山科駅前SBUXへ移動し、食後のコー
ヒーを飲みながら
夢見るH先生御推薦のグロタンディエックの伝記的記事
(
第一部、
第二部)を少し眺める。その後、配布された紙に○を12個ぐらい書くだ
けの、たった45分の会議に出席するために出勤。珍しくS藤先生が来ていて、
2人の学生に明日の修士論文公聴会の準備を指導していた。会議の後早々
に帰宅。再び山科駅前SBUXでグロタンディエックの記事をもう少し眺める。
夜は再びゴミ論文の校正など。ゴミ論文だからあまり長い時間眺めていると我
ながら気分が落ち込んでくるので、適当に代数幾何学のお勉強やグロタンディ
エックの記事などに逃避することが肝要である。
S藤先生によると、可換環論業界に私の日誌の読者が複数おら れるらしく、中には私とHerzog先生との関係を心配されている方々もおられる らしい。心配云々は 12月16日「一件落着」以前の話だと思われるが、念の ためにもう一度書いておこう。
昨年はHerzog先生と色々あった。色々あったと言っても、要するにHerzog先生と 共同研究しようと思い、お前が来るならいつでもウェルカムだという返事だったので 喜び勇んでドイツまで出かけて行ったのに全然まともに相手し てもらえず、猛烈にフラストレーションが溜まり「それは無いんじゃないの? 馬鹿にしよって!」と私が怒り狂ったという、まあ、それだけの事である。 そういう事情をHerzog先生へのメイルに2度 にわたって「酷いじゃないですか!」と綿々と書いて、それに対して Herzog先生も何故私の相手をまともに できなかったのかという理由なり言い訳なりを色々書いてきて、結局ふたりで 「なるほど、お互い色々事情を抱えて大変だったわけだな」と確認し、「色々あっ た事は水に流して、これまで通りの良い友達でいようぜ!」ということで「一 件落着」したのである。あれやこれやは、今となっては全て過去の事。それに しても、ドイツ人が「水に流そうぜ」なんて事を言うのかと、あの時はちょっ と驚いたけどね。
2005年2月21日(月)
<<不思議>>
寒い。終日野暮用と雑用に明け暮れる。午前と夕方、夜は山科区内で野暮用。
午後は衣笠キャンパスで会議。何のためにやっているのかよくわからない不思
議な会議だが、久しぶりに美しい衣笠キャンパスに行けるからまあいいかと
結構喜んで出勤。会議の方はやはり何だかよくわからず、狐につままれたような気
分で帰ってきた。移動の時間に少し代数幾何学のお勉強とドイツ語。
2005年2月20日(日)
<<ウワゴト>>
土曜日はゲーテ春の短期講座1回目。通常の上級コースは「上級レベルになり
たい」人が集まるのだが、短期の上級コースともなると、ほぼ完璧なネイティ
ブ・ドイツ語を話す外大の学生さん等等、「既に上級レベル」以上の人が集ま
るようである。いやはや、皆さん本当にドイツ語がお上手で。ウワゴトみたい
なドイツ語喋ってる私って何なんでしょう?この講座は普
通の会話練習を目的しているのではなく、ドイツのテレビや映画に出てくるコ
マーシャルをテーマに、それを鑑賞したり日本のコマーシャルと比較したりす
るのが主な内容だということも関係しているのだろう。
ゲーテの講座の後野暮用にて京都を離れ、今日の夕方帰宅。移動の時間は 代数幾何学のお勉強か、あるいは居眠り。夜はゴミ論文の校正を少し。
2005年2月18日(金)
<<息を呑む>>
ホワイトボードの納品と会議のため昼頃に出勤。雑用は比較的早く終了したの
だが、名目上の指導教員をやっている院生Ty君がちょっと修士論文の修正版
や公聴会の発表原稿をチェックして欲しいというので、夕方まで待つ。それや
これやの合間は代数幾何学のお勉強に励む。そうこうしているうちに、名目上
の指導教員をやっているもうひとりの院生S君の修士論文が事務から届き、ぱ
らぱらっとめくっていると、、、なっ何だ?!これは!とちょっと息を呑む。結局
Ty君の原稿チェックはしなくて良いことになり、帰宅。夜も引き続き代数幾
何学のお勉強。
明日はゲーテ春の短期講座第一回目。その帰りは直接野暮用の旅に出る予定。 次回更新は日曜日の深夜以降。
2005年2月17日(木)
<<蔑視思想>>
昼過ぎに出勤。生協で昼食をとってしばらくしてからO君のプレ院ゼミ。圏論
のアジョイントに関する定理をひとつ片付けて、岩井斉良「ホモロジー代数入
門」によるホモロジー代数基礎ゼミはひとまず終了。松村「可換環論」に進む。
ゼミの後は、私が名目上の指導教員をやっている院生Ty君の修士論文に関す
る相談を受ける。通勤途上は代数幾何学のお勉強。月1回東京で開かれる研究
セミナーをペースメーカーにして勉強しようと思ったのだけど、前回のセミナー
以後ロクに勉強してないままに今月のセミナーの日が近づいてきたので、ちょっ
と慌てている。
例えば私が昔やっていたプログラム理論の定理は、多くの場合現実のプロ グラムや計算機の動作といった数学外の意味を持っていて、その意味付け無し で唯数学としてだけ見れば、奇妙な特殊例を扱った面白くも何ともない演習問 題に見えてしまう。数学外の意味付けを知らない数学者はそれを見て馬鹿にす る。そして、馬鹿にしてくる数学者に対して理論計算機科学者は「彼らは何も わかってない!」と憤慨する。私などは、幸か不幸か馬鹿にする方と憤慨する 方の両方の視点を持っているので、心中複雑である。
しかし、わが身わが胸に静かに問 うてみると、数学外の意味付けを通して見ないと価値がわからない数学よりも、 美しさとか深さといった数学だけで閉じた価値を持つ数学の方が、ぐっと心引 かれるものを感じる。それは何も整数論とか代数幾何学に限ったことではなく、 数理物理でも数値解析でも数理ファイナンスでも組合せ論でも、そこに数学と しての深さや美しさがあれば、それをこよなく愛すという価値観である。私が 一時期自分のことを「生まれながらの純粋数学至上主義者」と呼んでいたのは、 まさにこの意味である。
しかしながら純粋数学至上主義が、応用数学に対する蔑視の形をとること もある。これは数学者として何らかの形で精神的危機に陥った時に顕在化す る、というのが最近の私の説である。数学者として充実した研究生活を 送っている数学エリートは、たとえ純粋数学以外のものに何の価値も 認めていなくても、他をことさら蔑視したりする必要は無いのである。 しかしながら、例えば 数学教室が外圧によって「応用シフト」を余儀なくされたとすれば、教室会議 の席上では「まともな数学」とか「まともでない数学」という言葉が飛び交っ て、身も蓋も無い議論が繰り広げられるかもしれない。 また、 目覚しい成果を次々と挙げた絶頂期を過ぎて自らの数学的能力の衰 えに深い失望を感じ始めた誇り高き一流数学者は、輝かしい過去の栄光を深く 心に留めるために、かつて自分よりも能力が低いと心密かに見下していた同僚 達がやっている数学を誹謗するかも知れない。 あるいは、 これから数学者として立派に活躍して生き残れるか不安に駆られている まだキャリアの浅い数学者は、自分がやっているよりも遥かに簡単そうな数学で 既に華々しく活躍している仲間を見て、あんな下らない数学なんかやっていい 気になりやがってと苦々しく思うかも知れない。 はてまた、何らかの事情で自分自身が蔑視している「応用数学」に身を 捧げることになったものの、そこで思うような成果が挙げられない 苛立ちを感じている数学者は、純粋数学者のちょっとした言動に「蔑視 としての純粋数学至上主義」を嗅ぎ取って、「馬鹿にするな!」とヒステリックに反応するかも 知れない。何よりも、その本人こそが蔑視の思想に取り憑かれているからである。
つまり、本当は自分が危ういのだけど、相手を見下すスタンスを取ることにより、 危うい立場を気持ちの上だけでも逆転しようというのが、蔑視としての純粋数学至 上主義ではないか。 私なんかも、履歴書の上では順風満帆棚からボタモチ人生を送っているの だけど、その内実は落ちこぼれの有象無象学生のナレノハテとして、会社勤め で「困ったチャン社員」したり、情報学科で「塩漬け」にされたり、数理科学 科で色々微妙な立場に立たされたりで、それなりに精神的危機を色々経験して きている。その度に蔑視としての純粋数学至上主義に心が支配されていたよう に思う。まあ、切羽詰った時の心の支えみたいなものだともいえるし、 それが数学の世界のしんどさを表しているのだともいえる。
じゃあ今はどうかというと、相変わらず色々な意味で切羽詰った 「かなりヤバイ」状態のままである。 しかし「蔑視としての純粋数学至上主義」がヤバくなっ ている自分に対する誤魔化しとわかった以上、そういったものに走る気も起こら ないし、何だか他人のことをごちゃごちゃ気にしている程俺は暇じゃないんだ! という気分である。つまり蔑視思想は卒業したってわけ。
ところで、「応用数学」は純粋数学者が思うほどに簡単なのか というと、それは間違いである。確かに「応用数学」と呼ばれるものの 多くは技術的には、例えば整数論や代数幾何学よりも簡単かも知れない。 しかし、どのような分野であれ優れた研究には良いアイディアが必要で、 良いアイディアを見つける難しさはその分野の 技術的な複雑さとそれほど強い関連があるわけではない。
例えばプログラム理論と可換環論とでは、後者の方が技術的には 比べ物にならない程複雑である。だから可換環論の研究には手間暇がかかる。 しかし、研究の中核になる新しいアイディアを見つける難しさは、 プログラム理論を研究していた時も今も大して変わらないような気が するのだ。そういう意味では、それがどんな分野であれ、新しい事を思いつく人 は同じように偉いと思う。
2005年2月16日(水)
<<関知しない>>
午前中は二日酔いに苦しむ。コーヒーを飲み、野暮用による”作業療法”を行って
何とか回復。午後はゴミ論文の校正作業を少ししてから、草津の店に置き忘れた
傘を取りに行き、その帰りに床屋に寄る。道すがらは代数幾何学のお勉強を少
し。そうこうしているうちに夕方になり、京都駅近辺に移動して、校正作業の
続きを少しやったりCDショップを冷やかしたり、本屋をさまよったり。帰宅
後はドイツ語など。
ところで私は、ある学年の学生達が全般的に元気が良いかどうかは割合気 にするのだが、誰が最優秀の学生かについてはほとんど何の興味も無い。元気 がある学年は講義をしてても楽しいし、こちらも元気が出てくる。これは重要 なことである。しかし、個々の学生がどうかという問題は、その学生に対して 適切な教え方を判断するために重要な情報である事を除いて、所詮はその学生 本人の問題であって、私の関知するところではない。これはずいぶん突き放し た見方であり、学生に対して冷たいように思えるかも知れない。しかし、自分 が優秀と認めた学生とそうでない学生とで態度が変わる教師、あるいは胸の内 では露骨に区別しているのを中途半端に隠して学生と接する教師というのもイ ヤラシイものではないか。