の
た
め
の
邪
魔
な
広
告
よ け ス ペ ー ス で す。
2006年1月31日(火)
<<無伴奏チェロ組曲>>
午前中は爆睡。自宅での野暮用をさっさと片付け、モーツァルトのクラリネッ
ト協奏曲と五重奏曲で気分を抑えつつ出勤。何故「気分を抑え」なければなら
ないのか。それは、ジェルヴァース・ドゥ・ペイエのCD購入は失敗であった
という悔しさがまだ忘れられないからである。嗚呼、ポール・メイエもアルフ
レート・プリンツもとても実直ないい音だ。クラリネットというのは、こうで
なくっちゃあいけない。
大学に着いてからは、生協の理髪店で散髪。丸刈りなので、すぐ終わる。 理髪店のFMラジオでバッハの無伴奏チェロ組曲(のほんの一部だけ)を初め て聴いた。レンブラントの三部光線の影で、ずっと昔からその教会に代々住み ついている鼠がごぞごぞと蠢いているような曲で、なかなか私好みの良さそう な曲である。近いうちに手を出すことになろう。
その後、会議があるはずの夕方まで、研究室でモーツァルトとアルペジオー ネ・ソナタとイタリア組曲を流しっ放しにして後期試験の答案の採点などの作 業。夕方、会議室に行っても誰もおらず。よし、じゃあ、俺ひとりでやるぞ! 伝説の会議だ、と。しかし、会議は明日だった。一日得した気分でまた採点作 業を少し続行してから帰宅。夜は、やはりアルペジオーネ・ソナタ、イタリア 組曲、クラリネット・ソナタ(ブラームス)、幻想小曲集(シューマン)など を聴きながら、数学。
私の音楽に対する評価はブレるのが常である。一度聴いただけで決め付け るのはよろしくない。そこで、何か良いところがひとつでも発見できないかと、 もう一度ジェルヴァース・ドゥ・ペイエを聴いてみるも、またひとつ 気に入らない所を見付けてしまった。ペイエのクラリネットは、高音部でチャルメラ のような音になる。ト、テ、チ、テ、ターって感じで、玩具の兵隊が行進しそ うである。冗談じゃない。あー、耳が腐りそうだ。腹が立ってきて数学どころ じゃあないと、ペーター・シュミードルで口直し、ならぬ、耳直し。
そして、深夜。数学は今日のところはこれぐらいにして、一日の締めは、 今日何回目かのストラヴィンスキーのイタリア組曲。嗚呼、沁みる。 この曲のような気分で生きて行きたいものだ、と。
2006年1月30日(月)
<<軽妙洒脱の揺らぎ>>
研究日。昼過ぎに散歩がてらに河原町三条近辺まで出かけた以外は、自宅で野
暮用と数学。JEUGIA三条本店にてCD1枚とゴールドベルク変奏曲の楽
譜を購入。バレンボイムの演奏とつき合わせてみたけれど、私はそもそも
楽譜が読めないので、今何処の部分を演奏しているのか、さっぱりわからず。
しょうがないので、楽譜だけ眺めて、しばらくうっとりする。
今日買ったCDは、ジェルヴァース・ドゥ・ペイエ(クラリネット)とGw enneth Pryor[読み方不明](ピアノ) のクラリネット版アル ペジオーネ・ソナタ(シューベルト)他のCD、ちょっと奮発の2300 円也。期待に胸膨らんだクラリネット版だけど、少なくともこのCDにはいさ さか失望を禁じ得ない。Pryorの派手さは無いものの明晰でしっかりした ピアノの演奏に好感が持てるけれど、ジェルヴァース・ドゥ・ペイエのクラリ ネットがどうにも好きになれない。
ジェルヴァース・ドゥ・ペイエのクラリネットは、音を長く伸ばす時の独 特のやらわかい揺らぎが特徴のようで、軽妙洒脱な音色である。これはこれで 良いのかも知れないけれど、私が長らくクラリネットにある種の偏見を持って いたのは、この軽妙洒脱さに対する根強い嫌悪感があるからである。さらに、 私はこういうのを聴くと、セコビアのクラシック・ギターと同じような古臭さ を感じてしまう。
しかし、クラリネットというのは実に色々な表情が出せる楽器であり、胸 にずしんと響く、豊かではあるけれど気取りの無い真っ正直な音色も出せるの である。その事に気づいたのは、ゲーテのクラリネット奏者氏のクリスマス・ パーティーでの演奏を聴いた時で、その時以来、クラリネットというのはああ でなくてはいけない、ああでなくては聴いてやらないぞと思っているのである。
アルペジオーネ・ソナタは、深く澄み切った悲しみと懐かしさ、さりとて 感情の深みに過剰に囚われない潔さと素朴な力強さが全部揃ってないと駄目だ と私は思っていて、したがって、間違っても軽妙洒脱には演奏して欲しくない のだ。ペイエの演奏では、Pryorのピアノがずいぶん頑張っているにもか かわらず、いくつか聴き比べてみたチェロ版のアルペジオーネ・ソナタに比べて、 かなり見劣りして聴こえてしまう。こんなつまらない曲じゃあなかったはずだぞ、 と。
このCDには、クラリネットとピアノのための幻想小曲集作品73(シュー マン)も録音されている。私の偏見に従えば、シューマンの幻想曲は、鬱陶し い曇り空の下に広がるドイツの森の朝靄が見えないといけないのである。心傷 つき一人森を彷徨って一夜を明かし、ああ人生は悲しいけれど世界は美しい、 やはり勇気を持って生きていかねばと、見上げた空に漂う朝靄である。それが、 ペイエの演奏の場合、所々にどうしても入ってしまう「軽妙洒脱の揺らぎ」故 に朝霧はぶち壊しになり、気取った英国紳士のパイプの煙と化してしまうので ある。それは違うだろう、と心の中で叫び、暴れたくなるのである。
以上、このCDはペケ。ジェルヴァース・ドゥ・ペイエのCDは金輪際買 わない!というのが、私の結論。
2006年1月29日(日)
<<かび臭いモダンさ>>
午前中は爆睡。それから夜まで、自宅や山科区内で野暮用。野暮用の友は、や
はり頭がおかしくなりそうなポール・メイエの「クラリネットの至芸」と、1
週間ぶりにクラリネット奏者氏のところから返って来た、モーツァルトのクラ
リネット協奏曲と五重奏曲。何と(!)「モーツァルト嫌いの歪んだ根性叩き
直しプロジェクト」が絶大なる効果を発揮したのか、先週の私は実はモーツァ
ルトの軽い禁断現象を起こしていた。今日久々にこのCDを聴いて、心癒され
る自分に心地よい満足感を覚えていたのである。やっぱり生きて行くのって大
変なのよね。でもモーツァルトに癒してもらって喜んでるようじゃ、私もヤキ
が回ったものよ(とまだモーツァルトに抵抗している)。
野暮用がはねて、夜はペーター・シュミードルのクラリネットを聴きなが ら、数学。春休みだし、じっくり腰を据えて研究をという気分なんだけど、間 もなく入試の採点が始まって、そういう気分は吹き飛んでしまうはず。でも、 人生の後先考えてたんじゃあ、数学なんてできないよ。
シューマンの「クラリネットとピアノのための幻想小曲集作品73」は、 私が好きなシューマン的お耽美の世界が目一杯広がっていて、思わずうっとり してしまう。しかし、アルバン・ベルクの「クラリネットとピアノのための4 つの小品作品5」は、ストラヴィンスキーの「クラリネット・ソロのための3 つの小品」ほどでもないにしろ、所謂「現代音楽」ってやつみたいで、いまひ とつである。「現代音楽」が、例えば1950年代の「最新建築」のかび臭 いモダンさのように、かえってバッハやモーツァルトよりも古臭く感じてし まう私って、いけない人なのでしょうか?
2006年1月28日(土)
<<アルペジオーネ・ソナタ>>
コーヒーの飲みすぎで胃が痛く、本日コーヒー断ち。そのためもあって終日猛
烈に眠いゲーテの日。約束通りクラリネット奏者氏から5枚のCDをお借りし
た。以下、飛ばし飛ばしながら大急ぎで一通り聴いてみた感想。
クラリネットのCDは2枚。1枚はポール・メイエ「クラリネットの至芸」。 メイエがプールの中でクラリネットを吹いているジャケットの写真が、何だか 「これ、面白いぞー!」って感じが出てて私のお気に入りである。ただし中身 は、ストラヴィンスキーなどの現代音楽のクラリネット独奏曲ばかりを集めた もの。感想は?うーん、メイエがとてもうまい事はわかる。でも、こんなの毎 日聴いてたら頭がおかしくなりそうな曲ばかり。もう一枚は、ペーター・シュ ミドールとブルーノ・カニーノ(ピアノ)によるクラリネット・ソナタ(ブラー ムス)、および、シューマンとベルクの曲。シュミドールのクラリネットもプ リンツ風の透明感のある音色だけど、クラリネット・ソナタはやはりプリンツ には及ばないな。
あとの3枚は全てチェロ版のアルペジオーネ・ソナタのCD。クラリネッ ト版は見つからなかったとのことで、ちょっと残念だが、とりあえず今日のと ころは、既に持っているタチヤーナ・ヴァシリエヴァのCDと一緒に、 私が最も気に入っている第3楽章だけを聴き比べることにした。
夜はスポーツ・クラブ。本日数学はお休み。
2006年1月27日(金)
<<イタリア組曲>>
午前中は自宅ですこし数学。昼頃自宅を出て、山科駅前で昼食を摂り、大学へ。
研究室でしばし雑用の後、情報理工学部1回生「数学4」(線形代数)の後期
試験の監督。試験中でも平気で爆睡する人たちなので、試験開始から何分で爆
睡しはじめるのか慎重に計測していたのだが、1、2名を除いて最後まで目を
覚ましていた。わからんものだ。彼らの爆睡と覚醒の内的メカニズムは、とう
とう解明されないままに終わってしまったなあ。まあ、どうでもいいんだけど。
試験の後は、研究室で色々雑用。生協で夕食後、図書館で文献を捜したが見つ からず。帰宅後は数学。
今日はブラームスのクラリネット五重奏曲・三重奏曲、シューベルトのア ルペジオ・ソナタ、ストラヴィンスキーのイタリア組曲を繰り返し繰り返し聴 いていた。イタリア組曲もいいなあ。序曲(Introduzione)の(特に出だしの) ところは、ちょっとシューベルト的で好きである。それ以外のところも、弦楽 器の可能性を十分引き出すような曲の作り方や、悪戯猫が飛び回っているよう なピアノの使い方も、とても面白い。
ところで、何をもってシューベルト的と言うかって?まあ、前にも書いた けど、要するに私が「ああ、自分も日々こういう気持ちで生きていきたいもの だ」と心の糧が得られれば、それがシューベルト的だってことにしておきましょ う。モーツァルトは美しいばっかりで、後には「癒された心」以外の何も残ら ないのよね。
さてそこで問題。ストラヴィンスキーのイタリア組曲のクラリネット編曲 版って、ありえない(!)のでしょうか?
2006年1月26日(木)
<<76%に復帰>>
昨晩はカール・ライスター版のクラリネット・ソナタだけを聴いてから寝よう
と思ったのだけど、結局アルフレッド・プリンツ版にも手を出し、またも聴き
比べをしてしまった。就寝中に夢現に考えていたこと--- と言っても以前に調
べていたいくつかの定理の間の微妙極まる関係を思い出していただけだが ---
を、平均律で左脳に余計な負荷をかけつつ、頭の中で整理したり考え直したり
しながら昼頃出勤。
生協ラ・ポーズで執念の天ざるセットの昼食を摂ってから、研究室にて昨 日採点を終えた離散数学の成績の集計をし、事務に提出。離散数学の合格率は、 学級崩壊状態だった昨年度は48%だったけど、今年はまずまず例年並の成績 に戻り、76%となった。9割ぐらいは合格して欲しいところだけど、零点で 合格させるわけにも行かないし。
その後、院生O君とMatsumuraゼミ。今日はかなり長引く。生協 で夕食の後、研究室で少し雑用の後、クラリネット五重奏曲・三重奏曲(ブラー ムス)を聴きながら帰宅。夜はドイツ語の宿題を片付けてから、少し数学。本 日の締めは、アルペジオ・ソナタと久々にバレンボイムのゴルドベルク変奏曲 でいってみようか、と。
2006年1月25日(水)
<<ドイツの森が見える?>>
午前中は自宅で野暮用とゲーテの予習を少ししてから、今日もアルペジオ・ソ
ナタを聴きながら自宅を出る。山科駅前SBUXで昼食を摂りながら少し数学。
年度末は色々忙しく、同時並行でやっていた作業が散りじりに分裂した状態な
ので、作業内容を整理し簡単なメモにしておく。昼食後、やはりアルペジオ・
ソナタを繰り返し聴きながら出勤。夕方の会議の時間まで、研究室でクラリネッ
ト五重奏と三重奏(ブラームス)を聴きながら離散数学の後期試験の採点。
16時半から教室会議。
私は気が短いので、会議中2度ほどぶちキレる。来年度は学科長が回って くるけれど、どうなることやら。以前町内会長が回ってきたときは相当な暴君 で通した。俺はごちゃごちゃ議論するのは嫌いや、ちゃっちゃと決めや!文句 言うんやったら、俺仕事せんで、と。まあ、そんな調子だった。学科長も町内 会長みたいなものだから、同じようにやってしまいそうである。私って、権力 持たせると一番危ないタイプなんだろうな。
会議は19時半に終了。生協で夕食の後、再び研究室でブラームスを聴き ながら採点作業。アルペジオ・ソナタ、イタリア組曲(ストラヴィンスキー) を聴きながら深夜帰宅。
本日の締めは、久々にカール・ライスターのクラリネット・ソナタ(ブラー ムス)を聴きながら、ほんの少しだけ数学。ライスターは20代の頃にもクラ リネット・ソナタのレコードを出しているそうだが、ブラームスが晩年の60 代の頃に書いたこの曲は、若きライスターには少々無理があったようである (どういう風に無理があったのか、一度そのレコードを聴いて確かめてみたい ものだが)。私の持っているCDはライスター42歳の頃の録音らしいけど、 きっと20代の頃の演奏より良くなっているのだろうと思う。アルフレート・ プリンツ版のクラリネット・ソナタと比べると、ちょっと演奏が手堅過ぎる感 じと、音色に透明感が乏しいところが気になるけど、それが「ドイツの森が見 える」という事でしょと言われれば、まあ、そうかもねって気もしないでもな いんだけど。
2006年1月24日(火)
<<腹減らないの?>>
山科駅前SBUXで軽く昼食を摂って、アルペジオ・ソナタ(シューベルト)
を聴きながら出勤。電車やバスの中で、11月下旬頃から断続的に考えている
問題についての研究ノートを眺める。何となく解決の糸口がつかめてきたよう
な気がしてきた頃に大学に到着。それから夕方の会議の時間まで、平均律クラ
ヴィーア曲集で左脳に負荷をかけながら、先日の離散数学の後期試験の採点。昼
食が軽過ぎたので、生協でまた軽く昼食の追加を摂って、16時より21時5
0分まで6時間近く教授会。夜遅く食事はとりたくないので、シンデレラ気分で
10時になるまでに大急ぎでカロリーメイトとホット・ココアで腹の虫を抑え、
再びアルペジオ・ソナタを聴きながら深夜11時過ぎ帰宅。寝る前はプリンツ
のクラリネット・ソナタ(ブラームス)で締める。
会社員をやってた20代の頃、40代50代のおじさん達を見て一番不思 議に思った事は、彼らは腹が減らないのだろうか?ということである。昼は軽 く蕎麦を一杯。夜は8時9時まで残業しても、何も食べずに2時間ぐらいかけ て帰宅するのである。会社帰りに飲み屋に立ち寄っても、刺身か煮物をちょっ と突っつくだけで、ロクに食べない。彼らは一体どういう生命体なのか。光合 成でもやってるのか、と。教授会も、夕食抜きで空腹ゆえに神経が高ぶった教 授達が、馬鹿野郎!飯も食わさずにいつまでも会議やりよって、お前、それで ただで済むとでも思ってんのかよ!と議長を吊るし上げるわけでもなく、長々 と発言したがる教授を袋叩きにするわけでもなく、皆さ んいたって紳士的である。そして空腹に目を血走らせることもなく、 穏やかで何食わぬ顔して、夜中の10時過ぎにバスに乗って帰っていくのだ。 あれは一体何なのか。
そういうお前はどうなんだ?と言われるかも知れないが、他のおじさん達 と同じかどうかは、よくわからない。私はもともとマゾ気味な精神構造を持っ ている上に、健康診断の恐怖というのがあり、それゆえにいつの間にか 「飯は毒」という感覚になってしまっている。
健康診断は項目によっては年齢が高くなるほど基準が厳しくなってたりして いる。だから、別に不摂生をしているわけでもなく現状維持をしているだけでは、 いずれはやれ中性脂肪がどうのコレステロールがどうの、再検査だの要注意だの とロクでも無い事ばかり言われる羽目になる仕掛けになっているのである。 ここで「加齢はそれ自体病気である」という思想を植えつけられる。 ああ、俺は不治の病気なんだ。いずれこの病気で死んでしまうんだ。 だったら今のうちに食べたいものを腹一杯食べるぞ、と。
しかし、体が求めるままに食欲を満たしていると1kgや2kgは簡単に 太ってしまい、まあ、1kgや2kgぐらいと思っていると、 たちまち5kgや6kgは太ってしまう。そしてまた健康診断の悪夢が脳裏を よぎるのである。
かくして「飯はそれ自体毒である」という思想が形成される。 そこにマゾ気味精神構造が微妙に一役買って、「飯は毒」だから沢山食べて自分を苛 めてやろう、ジャンボ・カツカレーも食っちまうぞ!饅頭も食うぞ!ケーキもアイスク リームもチョコレートもみーんなおいちい!酒も飲んじまうぞ!という路線に 走ったり、逆に「飯は毒」だから食べないようにして、空腹の辛さで自分を苛 めてやろうとかいう、病理現象に走りがちなのである。
今日のように、 カロリーメイトだけで夕食代わりになろう訳がなく、 腹へったよなーという侘しい気分の中、プリンツのクラリネット・ソナタを聴いて寝 るのって、マゾ的にはちょっと快感なのよね。
2006年1月23日(月)
<<博士の愛した数式>>
日曜午後からアルペジオ・ソナタを聴きながら東京に出張し、日大の特異点論
セミナーに参加。新幹線の車中は平均律クラヴィーア曲集、京都駅から自宅ま
ではクラリネット五重奏曲(ブラームス)を聴きながら、深夜に帰宅。
どうも平均律クラヴィーア曲集を聴いていると、数学の能率が少し落ちる ような気がする。右脳で聴ける音楽は数学の邪魔にならないけど、左脳で聴か せる音楽は数学の邪魔になる。平均律は左脳に少し負荷がかかるのだろう。あ と、音楽を聴くとそれが頭に残って勉強の邪魔になるという人が居るけれど、 それはおそらく左脳で音楽を聴く癖がある人じゃないかしら。私も昔はそうだっ たのだけど、今はそういう事は無い。
ところで、昨年文系数学の講義で課題図書のひとつにも指定した「博士の 愛した数式」が映画化されて、好評のようだ。寺尾聰と深津絵里のキャスティ ングは絶妙というか、私が何となくイメージしてた通り。この映画のホームペー ジに出ていた博士の部屋の感じも、まさに私がイメージしていた通り。何か私 の頭の中を読まれたみたいな感じで、これにはちょっと驚いている。
でも、この映画を見に行こうという気になれないのは、この映画がつまら ないだろうと思ってるからじゃなくって、私自身が数学者なので何かしらえも 言われぬ抵抗感があるからなのよね。
2006年1月21日(土)
<<闇雲に執念深い>>
ゲーテの日である。午前中はドイツ語で書かれた数学のモノグラフを読んだり
して、ウオーミングアップ。今日も執念深くモーツァルトで根性を叩き直しな
がらゲーテへ。私の持つ人間としての属性のひとつに「執念深い」というのが
ある。馬鹿は執念深くやらないと何もできない事を、私が一番よく知っている。
問題は闇雲に執念深いことである。
それにしてもポール・メイエはとても良いクラリネット奏者だ。まだ40 歳ぐらいで若いから、ブラームスとかは円熟期のプリンツなどにかなわないか も知れないけれど、メイエのモーツァルトは良い。ゲーテのクラリネット奏者 氏はこのCDを持っていないというので、お貸しすることにした。実はこれで 根性叩き直しプロジェクトからしばらく開放されると、ちょっとほっとしてい るのである。そんなもん、自分でやり始めたことだから、自分でやめれば済む ことじゃん!と思うかもしれないが、そこにブレーキが利かないところがまさ に「闇雲に執念深い」の意味するところなのである。数学だって、ブレーキが 利かないから続いているようなものである。
一方、氏の好意に甘えて、ポール・メイエのお勧めCDその他を適当に何 枚か見繕って貸していただくことになった。
ゲーテの帰りは例によってJEUGIYA三条本店で道草。今日は輸入C D1000円均一バーゲン・セールの日。本日の掘り出し物は、Tatjana Vassilieva (チェロ)、Pascal Godart (ピアノ)による、アルペジオ・ソ ナタ(シューベルト)、チェロとピアノのためのソナタ(フランク)、イタリ ア組曲(ストラヴィンスキー)が入ったもの。お目当てはアルペジオ・ソナタ で、これのクラリネット版が大変良いらしいという情報をごく最近入手。ゲー テのクラリネット奏者氏も「確かに良い曲だ」という。じゃ、決まりだな、と いうことで探したら今日はチェロ版だけが見つかった。本来チェロ用の曲らし いので、これもひとつ押さえておこうと購入。
アルペジオ・ソナタはすぐれてシューベルト的である。特に第3楽章アレ グレットは泣かせる。私は「男の子というものは母親が死んだ時以外は泣いて はいけない」と教えられて育った最後の世代であるが、これが泣かずにおれよ うか。静かだけど悲しく、ひたすら深く、そして懐かしいのだけど、ブラーム スのようにどろりとした重さが無い。やはり30才そこそこで亡くなった作曲家の初々しさが 効いてます。これをクラリネットでやったら、きっと泣くだけでは済まんぞ。 じゃあ、どうしようか?暴れるか?
夜はスポーツクラブ。
2006年1月20日(金)
<<癒されたくない!>>
引き続きモーツァルトで根性を叩き直しながら、昼休みに開かれる15分間の
作業会議と書類を1枚提出するために出勤。その後、遅めの昼食を生協ラ・ポー
ズ慶びのカツカレーで決めてから、研究室で2時間ほど数学をやってから帰路
につく。バッハの平均律で自らを律っしながら山科区内で3時間ほど野暮用の後、
山科駅前SBUXで夕食を摂って、再びモーツァルトで根性を叩き直しながら
帰宅。夜はプリンツのクラリネット・ソナタ、五重奏、三重奏とブラームスに
走ったり、はてまた久々バレンボイムのゴールドベルク変奏曲や平均律とバッ
ハに擦り寄ったりしながら、数学。
私の根性は確実に叩き直されつつある。なんと!クラリネット協奏曲の最 初のヴァイオリンの部分、つまり、あの典型的な(?)モーツァルト節のとこ ろで吐き気を催すどころか「ああ、いいなあ。ポール・メイエのクラリネット もいい!」なんて思って、道を歩きながら踊ったりしているのである。しかし、 だ。何が「ああ、いいなあ」なんだよ!まったくいい加減な野郎だぜ。あんな に嫌いだ嫌いだと言ってたくせに、お前の根性は20回かそこら聴いただけで 叩き直せる程度にヤワだったのかよ!
そこでちょっと言い訳。モーツァルトは矢鱈に美しいのである。私の人生 に関係無く、唯々美しいのである。それは日々考え、感じ、生きている私の魂 の片隅に見え隠れする暗闇に何ら触れることなく、完璧な調和をもって唯々圧 倒的に美しく通り過ぎていくのである。それが気に入らないことには変わりな い。例えば、シューベルトを聴くと、ああ、自分は日々こういう気持ちで生き ていきたいものだと思い、ブラームスを聴くと、そうだよね(何が「そうだよ ね」なんだ?)、よし、明日も頑張って生きていこう、 バッハやシューマンを聴くと、そうだ、世界って確かにそういう風に見える時 ってあるよね、とか思うものだが、モーツァルトにはそういうものが無く、唯 「ああ、いいな」と思って踊りたくなるだけ。 こういうのを「癒される」というのかも知れないけど、私、別に癒され たくありません!と、今日のところは言い放っておこう。
2006年1月19日(木)
<<それ以上の理由>>
小雪がちらつく中、今日もモーツァルトで根性を叩き直しながら出勤。午前中
は2回生配当「離散数学」の後期試験。今回の後期期間で唯一例年並にまとも
だったこの講座を、例年並にまともな試験結果で締めくくることができるか、
採点が楽しみである。生協ラ・ポーズでの昼食は、昨日の反省(一体何を反省
したというのか?アホかお前は?)に立って天ざるセット。昼食後は、昨日の
「計算機数学続論2」の採点。受験者9名の平均点は100点満点で2.8点。
全員零点で合格者ゼロを予想してたのだけど、少なくとも全員零点という綺麗
な結果にはならなかった。現実というのは、いつもそういうものだ。午後一杯
は院生O君のMatsumuraゼミ。生協で夕食を摂り、再びモーツァルト
で根性を叩き直しながら帰宅。
夜は、またもライスターとプリンツの「クラリネット・ソナタ」(ブラー ムス)の聴き比べをしながら、ドイツ語の宿題。任意ではあるけど毎回提出し ている独作文の宿題の今回の課題は「色々な国の言葉は将来的に英語などの1 つの言語に統一されるであろうか?」というもの。「少なくとも私が生きてい る間は日本語とドイツ語とほんの少しばかりのフランス語が残るであろう。私が 死んでからどうなるかは、私の知ったことではない。 Während ich lebe, will ich Japanisch, Deutsch und nur ein bisschen Französisch sprechen. Und wie wird es nach meinem Tod? Das ist mir ganz egal.」 (註:このドイツ語が正しいという保障はどこにもありません。良い子は真似 をしないでください。)ではたった2行にしかならないから、今回は 提出を見合わせようと思う。でも、それで答の全てなんだけどね。
世の中には、自分が死んだら同時に世界は終わりだと考えている人間と、 自分が死んでも世界は続くと考えている人間の2種類が居るけれど、私は前者 のタイプである。では何故「永遠の学問」である数学をやっているかって?そ れは単に自分が今日明日をより良く生きるためだよ。それ以上の理由が何処に あるかい?
ひきつづき、「平均律」(バッハ)を聴きながら、数学をすこし。寝不足 気味なので、今日は早めに寝る。
2006年1月18日(水)
<<本年度該当者なし>>
モーツァルトで根性を叩き直しながら出勤。午前中は4回生配当「計算機数学
続論2」の後期試験。教室では一度も見たこともない学生を中心に、9名程度
受験。この科目は、受講生の隔週出席や「伝説の講義」など、いろいろ例年と
は趣を異にする現象が起こって学級崩壊に近い状態だったこともあって、芥川
賞や直木賞みたいに「本年度該当者(合格者)なし」となってもしょうがない
なと思っている。ぱらぱらっと答案と見たところ、(旧)情報学科の学生を
思わせるような「お願い文」などが書かれていたりして、誇り高き
数年前までの数学の学生達ならこういう事は書かなかったのになと、時代の変化
をそこはかとなく感じる。さて実際どうなるか、採点が楽しみだ。
昼食は生協ラ・ポーズで、O坂主任と一緒になる。流石は全力疾走のO坂 先生である、今日も定番のちゃんぽん麺で決めていた。今日は執念の天ざるセッ ト以外のものにして「定番」を外してしまった私は、激しく自らを恥じる。
午後は教室会議の予定だったが、O坂主任に欠席届けを出して京大数理研図書室へ。 帰りは久々に進々堂に立ち寄り、カフェオーレを飲みながら、今日入手した1 975年の論文のコピーに読み耽る。2,3年前から時折「これ、わからんな あ」と思いつつも何となくやりすごしてきた基本事項がまた浮上してきた。多 少時間がかかっても今ここで決着をつけないと、阿呆が直らないのではないか と思い、今日もうじうじ考える。
夜は平均律に切り替えて引き続きうじうじ考えたり、モーツァルトに戻っ て根性を叩き直しながらドイツ語をやったり。
2006年1月17日(火)
<<根性を叩き直す>>
阪神淡路大震災から今日で11年目だそうである。あの時の揺れの感覚
はまだ体が覚えているし、自分が生きている間にこんな事が本当に起こる
のかと目を疑った神戸の様子も、まだ瞼に焼き付いている。
当時の私はといえば、まだ計算機屋でやって行こうといろいろやっていて、
その1年後に数学への転向を決心することになろうとは夢にも思っていなかった。
午前中は、モーツァルトのクラリネット協奏曲および五重奏曲で歪んだ根 性を叩き直しながら、自宅で野暮用。さらにバッハの平均律に切り替えて、昨 日からひっかかっている、今更他人に聞けないかなり基礎的な問題をうじうじ 考える。この問題の一部は昼間山科駅の電車のホームで解決し、どうしてもう まく証明できない残りの部分は、夜中になっても一般には成立しないらしい事 がわかってきたが、まだすっきりしない。でも、すっきりしないのは私の頭の 悪さばかりではなく、そもそもこの対象がミステリアスなんだからなんじゃな いかしらと思い当たる節が無いでもない。
本日夕方に会議があるため、昼過ぎに出勤。今日はシャンとしようと思っ て、平均律クラヴィーアのCDだけを持って家を出る。会議の時間まで研究室 で数学をと思っていたけれど、結局先日納入されて箱も開けずに放置してあっ たPCの設定作業で潰れてしまった。平均律聴きながらPCの設定とは、何と も物悲しや。PCの設定というのは、詰まらないことでも無闇に時間を食う。 数学でも、上に書いたような詰まらない事無闇に時間を潰しているわけだが、 同じ無闇に時間を潰すならPCと数学でどちらが良いかといえば、そりゃあ数 学の方に決まってます。
夜中は再びモーツァルトのクラリネット協奏曲および五重奏曲で歪んだ根 性を叩き直しながら、ドイツ語を少し。プリンツもいいけれど、ポール・メイ エ(Paul Meyer)って人も結構いい音出すんだなあ。
2006年1月16日(月)
<<のっぺらぼうの私>>
研究日。昼過ぎまで自宅や近所で野暮用。午後は自宅にて数学。今日は教科書
に立ち戻って、ある基礎的な話題を洗い直す。今まで騙し騙しいくつかの研究
論文らしきものを書いてきたけれど、そこで自分が使ってきた技術手法を振り
返るに、実に寒々とした気分になる。土壇場で自分が本当に使いこなせる技術
手法は、自分が本当に理解しているものだけである。私は既に色々な理論を理
解して使いこなしている気でいたけれど、それは錯覚である。せいぜい問題を
掴み設定するところまでは使えるけれど、実際に問題を解く時にも使いこなせ
るレベルまで理解し尽くしているものは、ごく僅かでしかない。日々これ己の
阿呆との闘いという懈怠あるまじき道なれど、今だ高山の阿呆は治っていなかっ
たのである。
さて今日はモーツアルトのクラリネット協奏曲と五重奏曲、バッハの平均 律クラヴィーア第二巻、ブラームスの五重奏と三重奏を色々取り混ぜて聴く。 モーツアルト嫌いの私の心は、おそらく歪んでいるのである。私の心はずっと 若い頃から深く深く歪んでいる。この歪みの上に奇矯な人格が形成され、あま りにも愚かしくも平凡で、しかしながら部分的には数奇な生活と人生に導かれ てきたのではないかと思う。そしていまここで、吐き気を抑えながらモーツア ルトと向き合うのは、愉快な試みである。繰り返し聴いているうちに、歪んだ 根性が少しずつ叩き直されていって、最後にはモーツアルト(のクラリネット 曲だけなら?)を受け入れられるようになると同時に、(歪みの消えた)のっ ぺらぼうの私が燃えカスのように残る。そして「高山の存在とは単にあの心の 歪みそのものでしかなかったのだ」と証明されてしまう、とか?ああ、それに してもプリンツのクラリネットは沁みるぜい。