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た
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魔
な
広
告
よ け ス ペ ー ス で す。
2011年2月15日(火)
<<安定したゴミ屑時代>>
午前中はゲストハウスで色々野暮用。ふとボン大学数学科のサイトを見
てみたら、昨日私が潜入した建物から少し離れたところに引っ越ししたと
あった。私が潜入した建物にはまだInstitut fuer Mathematikの看板が出て
いて、大教室では低回生対象の数学入門講座みたいなものが開かれていたし、
いくつかの部屋では院生のような人たちが居た。しかし
教員研究室などは新しいところに移ったのだろう。
では、あのIDカードが必要な監視カメラ付きのガラス扉の向こうの部屋 は何だったんだろう。いずれにせよ「○○禁止」だの「○○は閉鎖中」といった 張り紙は嬉しそうにあちこちベタベタ張りたがるけれど、移転の掲示案内など は一切やらないところがすこぶるドイツ的である。
アホの属性のひとつに「ひがみっぽい」というのがあって、何かあるとすぐに 「俺サマがアホやと思って、軽くあしらいよって」とムクれる。ボン大学の監視カメラ 付き扉や街のど真ん中のマックスプランク研究所のように、セキュリティー 機能があれば「アホよけ装置なんかつけよって!そんなにアホが憎いか?」と 被害妄想に陥る。
厄介なことには、数学業界においては「被害妄想かも?」と思ってもそれが 本当だったりすることだ。例えば、「質問メールに返事が来ないのはアホがバレ たからだろう」と思うのは考え過ぎでも何でもなく、その通りだったりする。 だから私は今でも、ボン大学数学科の新しい建物にはアホよけセキュリティー 装置が厳重に施されていると信じている。
では、「ひがみっぽいアホ」はどうやって作られるのか。それはチヤホヤされる 時期とゴミ屑のように扱われる時期を交互に経験し、最後に安定したゴミ屑時代に 突入した時に発生するのが一つの典型パターンだと思われる。チヤホヤされた良い 時代を知っていないと、「こいつはアホだ」と思われて軽くあしらわれる悔しさ はわからないし、チヤホヤされてプライドが肥大しているから、何でもないことで 「馬鹿にされた」と感じてしまう。
私なども、半分はこの日誌用のネタとして作ってる面もあるけど、 少なくとも半分ぐらいは「ひがみっぽいアホ」である。 京大に入学した頃は秀才だとチヤホヤされ、 しかし京大では教師たちにアホだ馬鹿だとボコボコにやられ、 会社に入ったら「我が社の将来を担う新人」とチヤホヤされ、 数年後には「碌に仕事もしないリストラ予備軍」と冷たい視線を感じ、 それでも計算機科学の学界では若手ということですこしはチヤホヤされた。 大学に移っても、30代前半まではまだチヤホヤモードが残り、 40代で数学に転向すると、「アンタはもう若手じゃないでしょ!」と 若手優遇期間を過ぎていることを知る。
生涯チヤホヤされ続けるためには、若手優遇期間中に然るべき業績を挙げて 大家になっておかないと駄目だが、私の場合は「年食ってるくせに、馬鹿のまま」 ということで、扱いが冷たくなる。かくして安定したゴミ屑時代に突入し、 どうも最近自虐の発作が酷くなってきたなあとか思ってたら、 いつのまにか「ひがみっぽいアホ」になっていたというわけ。まあ、自覚症状が 出た時には、既にかなり進行しているというところは、成人病にも似てますな。
さて、今日は昼頃に旧市街のスーパーに買い物に出て、ついでに黒眼鏡と 哲学者を偵察。 哲学者はいつもの指定席に荷物をおいて不在。近くのMarkthalleに昼食用の アジア風焼きそばでも買いに行ってるのかしら。黒眼鏡は珍しく本は読まずに、 「嗚呼、春の気配、、、」みたいな顔をして遠くの風景を眺めていた。彼は あごひげを生やしているが、よく見るとまだ若いのに髭にかなり白髪が混じっている。 牛乳とココアとリンゴ以外に何を食べてるのか知らないけど、食生活が悪いんで はないかな。
(ちなみに「黒眼鏡」とは「黒ぶち眼鏡」の略で、黒いサングラスのことではない。)
買い物の荷物を置きに一旦ゲストハウスに戻り、すぐに大学へ。メンザで 昼食。研究室で食後のコーヒーとTeXノートの印刷。個室の研究室を 与えてもらったけど、結局食後のコーヒーを飲んだり、部屋にあるPCで PDFファイルの印刷コマンドを発行するぐらいしか使ってない。教授だから 個室貸与なんて、そういうところだけチヤホヤされてもしょうがないん だけど。例えば、、、と、これ以上は書かない約束になってるので、書かないけど。
それから夕方まで図書館に籠る。ゲストハウスに戻り、夜もまた少し数学。
2011年2月14日(月)
<<アホ菌テロ>>
掃除の日。8時起床9時出発。哲学者はまだ市立図書館軒下で寝ていた。
大聖堂教会の近くを通り、遠方から目視にて黒眼鏡の不在を確認。彼はいつも
来るのが遅い。Neumarktのドイツポストで野暮用を済ませ、さらに進んで
オスナブリュック中央駅へ。ボン行きの電車を調べたけれど、直近のものは
発車2分前で、しかもこういう時に限って定時運行している。仕方なく
1時間後の次の電車の切符を買う。
パン屋がやっている駅のカフェは、トイレの鍵が掛かっていていちいち店員に 申し出なければならないのでパスし、駅の向かいにマクドナルドともひとつ 別のカフェが共同でやっている店に入って電車を待つことにした。 ところが、ここのトイレは昨日までは何時でも自由につかえたはずだが、 今日行ったら、男性小用は自由、大の方には鍵がかかっており、店員のレシートを 「呈示して gegen Vorlage」専用コインを貰い、それを入れて鍵を開けなければ ならないように変わっていた。
小用が催してきたので、コインを貰う必要はないが、一応調査のために レシートを見せてコインを貰ってみた。そしたらレシートも取り上げられてしまった!ちょっと待て、これじゃあレシートと「引き換えbei Lieferung」じゃないかよ! トイレにはちゃんとgegen Vorlageって書いてあるじゃないかよ?! って、ドイツではこういう文句を言ってもまず通用しない。
まったく駅のパン屋カフェと似たり寄ったりの性格の悪さだな。 これがドイツ・スタンダードかしら。
こみ上げる怒りを抑えてボンに向かう。電車で2時間半かかるので、その間 論文読み。13時過ぎにボンに到着。まずは駅でサンドイッチを買って簡単に昼食を 済ませ、さらに書店で市街地図と観光案内を購入。ボン観光の目的は、マックスプランク研究所、ボン大学、そしてベートーヴェンの生家の見学。それ以外は適当に街をぶらぶらしてみようか、と。
マックスプランクについては何度か恨みがましく書いてきた。 そう、アホは来るなと門前払いを食った数学研究所である。ふん、 それでアホを追っ払った積りになるなよ。 俺サマは1年数か月後の今日ちゃんとボンにやってきたし、 今から研究所に潜入して秘かにアホ菌をたっぷりばらまいて帰ってやる。 アホ菌に感染したら、頭に霞がかかってボーっとしてしまい、 「標数7以上の代数多様体の小平消滅定理については、アビヤンカ―が既に証明 してますから、、、」とか「アチヤ・シンガーのインデックス定理によれば、 複素多様体の上では何でも成り立ちますから、、、」みたいな大ボケが平気で ぶちかませるようになり、ヨーロッパ人が大好きなアホ除け選考付き研究集会には 片っ端から門前払いを食い、自分が関係するはずの研究集会のオーガナイザーには 知らん顔を決め込まれ、同じ数学者に3回質問メールを出すとブラックリストに 載せられて、以後返事が来なくなるんだぞ。どうだ、めっちゃ怖いだろう? ふっふっふ。
かように意気揚々とマックスプランク研究所に行ってみたのだが、繁華街のど 真ん中の雑居ビルの2階以上(1階はレストランが入っていた)のフロアを使って るような感じ。入り口にはしっかり鍵が掛かっていて、インターホンで係員 を呼びだして開けてもらう仕組みになっている。そういえば エディンバラ大学の数学研究所 も街の真ん中にあって、やはりインターホンで係員を呼びだして開けてもらう 仕組みだった。うーむ、鉄壁のアホ除け対策だな。「今日の午後の○○氏のセミナーを聴講するために来ました」とでも言えば開けてもらえたかもしれないが、まさかこんな仕組みとは知らなかったので、準備してこなかった。
まあ、応募に落とされたとこと鍵の件を総合的に考えると、ドイツ的性格の悪さを色濃く備えた研究所だとの印象を持った。それに比べれば、フリーパスで入れるパリの ジュシュー研究所やポアンカレ研究所はオープンでよろしい。京大の数理研なんてのは、神様仏様レベルでオープンだ。ってな事を言ってると、日本に帰ったら数理研もドイツの真似してガチガチに鍵が掛かってたりして。
それから2,3の教会に潜入し、街を散策し、ベートーヴェンの生家も見学したが、教会はまずまず立派だけど、ほかはどうってこともない街だと思った。オスナブリュックやミュンスターの方が歴史的景観がよく復刻・保存されており、風情があって美しい。
市の中心部をひととおり周ってから、駅の反対側のボン大学数学科に潜入した。 数学科は独立した建物を持っていたが、一部改装工事中でごたごたしていた。 さらに良くないことは、ここから先は教員の研究室と思われるところに扉があり、 鍵が掛かっていてIDカードか何かないと開かない仕掛けになっている。 おまけに頭の上には監視カメラまで動いていた。何なんですか、これは? エッセン大学でもオスナブリュック大学でもベルリン自由大学でも ミュンスター大学でも、こんなの見たことないですよ。これ、 ボン大学オリジナルですか?「単位よこせ!」と学生が刃物持って殴り込んでく るのを防ぐためですか?それとも、「マックスプランクの選考で俺サマを落 とした外部委員はお前か?」と怒り狂った数学者のアホ菌テロを阻止するためですか?まったくもって、よくわからない。
以上、結論を申しますと、私(わたくし)的にはボンは性格の悪い 碌でもない街です。サバティカルの滞在地をボンじゃなくって オスナブリュックにしたのは正解だったと言えるでしょう。 と、「高い所のブドウは酸っぱい!」みたいな ことを言い放っておきましょう。
夕方ボンを発ち、電車で20分のケルンへ。今日は大聖堂の内部をゆっくり 見学できた。その近くのローマ時代からの古い教会も回ろうかと思ったけど、 夕方遅かったり休館日だったりで、結局どこにも入れず。しかし10年ぶりに ケルンの街を少し散策した。ケルンは大聖堂と2,3の教会以外はほとんど 歴史的景観というものが無く、どうってことのない街が続いている だけである。しかしボンに比べると、少なくとも中央駅近辺は少しばかりお洒落な 感じの店も立ち並んでいて、綺麗である。
ケルン駅構内の豚肉料理の美味しい店で夕食。Koelschとかいう、 ケルンで作られケルンでしか売られてないビールも飲んだ。電車の中で、 「馬鹿野郎、どいつもこいつも、俺サマを馬鹿にしよって!お前ら、そんなに アホが憎いのかよ?!」とほろ酔い気分で ひとりクダを巻きつつ論文を読み。21時半頃に無事オスナブリュックに帰還し、 22時前にゲストハウスに戻る。
2011年2月13日(日)
<<資源を大切に>>
ぐっと寒かったのは昨日だけで、今日はまあ普通に寒い。午前中はゲスト
ハウスで数学など。1年前にベトナムで講演したときに質問されて、
なんとか誤魔化したことをちゃんと勉強しておこうか、と。
午後は遅めの昼食を兼ねて街に出る。昼食は聖ヨハン教会近くの いつものケバプの店。今日はPommes Doennerにしてみた。フライドポテトの上 にケバプがテンコ盛りという、何だか体に悪そうなメニュー。 まあ日本ではまず食べられないだろうから、一度は試しておこうか、と。
勿論、黒眼鏡や哲学者の調査も行った。 哲学者は市立図書館のいつもの軒の下で壁にもたれて読書していた。 黒眼鏡が哲学者の近く、といっても20メートルぐらい離れたところで 自転車に乗ってぐるぐる旋回し、そこに哲学者のあたりからトルコ系の オジサンが出てきた。トルコ男が去ったあと、黒眼鏡は旋回をやめて 自転車で遠くに行ってしまった。 彼らが何をやっていたのかは不明である。もう少し早く現場に来ていれば、 何かわかったかもしれない。
その直後に大聖堂教会に行ってみると、黒眼鏡の指定席に以前よく来ていた 30代後半ぐらいの女が座っていた。その向かいにはトルコ系のような男がいたが、 もしかしたらさきほど哲学者の住処のあたりから出てきた男だったかもしれない。
うーん、彼らの世界はあまりに深すぎて、半年程度の調査で全容を解明 するのは難しいかもしれない。哲学者を頂点とする物乞い集団の秘密組織でも あるのかもしれないが、 結局何の成果もなしに手ぶらで日本に帰る ことになるのか、それとも最後にどんてん返しで大発見が訪れるのか。 まだ時間があるから、最後の最後まで粘り強い調査を続けよう。
教会も4件回った。マリエン、大聖堂の他に、聖ヨハンとJusu Herz. 聖カタリネンも行ってみたかったが、ちょっと外れにあって プロテスタント教会だから閉まってたりするとつまらないので、やめた。
中央駅のカフェにも寄って、コーヒーを一杯。中央駅の前に、毛並みの良 さそうな大型犬を連れた若い男が物乞いをしていた。犬の餌代を恵んでくれ ということか。帰り道に大聖堂教会を偵察したら、例の女とトルコ男は姿を 消し、黒眼鏡が復活していた。哲学者は市立図書館の軒の下で寝ていた。
夕方ゲストハウスに戻り、夕食を挟んでまた数学。ベトナム問題は解決した。 あの時は恐る恐る適当に答えておいたけど、まあ、間違いではなかったな。 あと、某大先生への突撃インタビュー(メール編)第三弾は、あれ以後 なしのつぶてで、とうとう私がアホであることがばれて「こんな奴の相手する のはやめよう」と黙殺を決め込まれたと思われる。しかしベトナム問題をきちんと 押さえれば、大先生の返事が来なくても、一応疑問は解決しそうだ。
数学者は有限資源である。そして数学者はアホの相手をすることを最も嫌う。 それは傲慢だと思うけど、私がそう思ったところでどうにかなるものではない。 何か質問して、最初は愛想よく答えてくれても、2度3度と続くと 「こいつアホや」と黙殺を決め込まれる。するとその数学者は私から見れば 「償却された」ことになる。「こいつはもう使えない」と。
そういうことを続けていると、質問できる数学者がすぐに枯渇してしまうので、 資源は大事に使わないといけない。長期的には新しい人が入ってきて人が入れ 換わるから、質問できる人はどんどん湧いてくるわけだが、そのペースよりも 償却速度の方が遅くないと駄目だから、動的均衡を維持するために色々気 をつかうことになる。ひとつの資源を大事に使うために、アホであることを 上手に隠したり、俺サマの質問に愛想よく答えておけば後でいことがあるかもよ? みたいな雰囲気を漂わせたりすることも必要になる。勿論、すべてが バレた時が「償却期限」である。
殺伐とした打算の世界で嫌になるが、エライ数学者だと 周りの人間の扱い方が違うから話が違ってくるかもしれないが、 アホの立場からすれば数学者社会は実際そんな感じじゃなかろうかと思う。 だからアホが数学やってると苦労するのである(出たね、久々の自虐ネタ)。
2011年2月12日(土)
<<ゴーマン・キャラ>>
今朝は急に冷え込んで、雪が降っていた。何と間の良いことか。早速、
昨日買った新しいコートを着て偵察飛行に出よう。
午前中は洗濯とアイロンかけ、数学を少し。午後は街に出る。まずは 近所の中近東エスニック料理店で昼食。このレストランは2回目。前回は 軽くサンドイッチで様子を見て、良さそうだったのでまた入った。
ドイツのレストランのパターンは大体分かったので、言葉も含めて ほとんど不安はない。しかしパリでレストランに入る時はそうもいかない。 オジサンのずうずうしさと、片言のフランス語で実際は何とかなるのだけど、 やはり言葉に自信がないと、ちょっと緊張する。
それにしても、ドイツ語をある程度勉強したものの、結局今回の滞在では、 最初の頃の役所での届けとゲストハウスの管理人さんとのやりとりで少し複雑 なドイツ語を使った以外は、買い物やレストランでの定型的表現だけしか使わない。
大学院生やポスドクあたりだと、大部屋で同室の人と何だかんだ やっているうちに言葉を覚える。しかし私の場合は、教授だからということで 個室が与えられているうえに、特に研究グループのメンバーが集まって 何かするということもない。B先生との面会も事実上週1時間に制限 されていて、その1時間も数学の話をするときは正確を期して英語を 使っている。たまに談話会の外部講師たちとの会食についていくと、 皆好き勝手に自分達にしかわからない話題を口語ドイツ語で喋りまく っているから、何を言ってるのかてんでわからず、話に入って 行きようがない。かくして複雑なドイツ語を使う機会はほとんど皆無である。
ポスドクの某アメリカ人は、昼食や夕食で皆と一緒の時は英語で延々と 好き勝手なことを喋りまくっているが、あのぐらいやらないと 駄目なんだろうね。相手が聞いてようと、欠伸を噛み殺しながら 「この野郎、いつまで下らなねえ事喋ってやがるんだよう」と 殺意にも似た感情をメラメラとたぎらせていようと、 下手なドイツ語でなんだかんだ一方的に喋りまくり、質問し、相手に答えさせ、 また喋りまくる。そのぐらいやらないと、まともなドイツ語を喋るチャンス なんて無いな。しかしそれでは私が嫌いな「押しの強いオジサン・ キャラ」になってしまう。オジサンというのは、その存在自体の鬱陶しさが 既に押しの強さに通底しているのに、それに加えて本当に自分を押し出してどうす るんだ?と。
それは私の「自意識過剰ゴーマン・キャラ」とはちょっと違う。 ちょっと話してみて相手の反応が悪いと、何だよ、お前、そのシケた 反応は?ふざけやがって。俺サマと真面目に話すつもりがないのかよ。 あー、わかったよ。じゃあ、お前なんざにはもう話しないからな、アバヨ! みたいな。そういうことをやってると、語学学校にでも行かない限りドイツ語使 う時が無いんだよね。
駅前に語学学校みたいなのがあるので、「あのう、ドイツに来たの ですが、ドイツ語を使う機会が全然ないので、ドイツ語忘れそうなんですう。 何でもいいから喋らせてください」とか言って通ってみたりして。 でもあと、1ヶ月ちょっとだから、もう遅いか。
しかし、いざとなったら幼稚な表現でも何でも使って、とにかく自分の言いたい ことは言えるという自信があると、黙ってドイツの街を偵察飛行している 時でも、気分がぐっと楽なことは確かである。パリの街を歩いている時の ちょっと不安な気分と比較して、そう思う。
マリエン教会を偵察するも、今日はZ氏のオルガン練習は無し。 大聖堂教会を偵察するも、黒眼鏡は荷物だけ置いて姿をくらましていた。 大通りの哲学者は、今日の寒さで再び両耳をすっぽり覆える厳寒期用の帽子 を被って読書三昧。ミュンスターの物乞いは移民系の人が多く、身なりも貧しく 「どうか御恵みを!」みたいな台詞も言っていた。それに対して黒眼鏡も 哲学者も装備は万全だし、良さそうな煙草を吸い、悠々とリンゴの皮をむいて 食べ、ポットに入った温かそうなコーヒーを飲みながら読書に耽っている。 ま、私は彼らのそういうところが好きなんだけど。
Neumarktの郵便局で野暮用の後、向いのGaleria Kaufhofで買い物をして ゲストハウスに戻る。夕食を挟んで、また少し数学。
2011年2月11日(金)
<<パスモー問題の解決>>
午前中はゲストハウスで数学。遅めの昼食を食べにメンザに出掛け、研究室で
食後のコーヒー。それから旧市街に出掛けようと数学科の建物を出ようとしたら、
ある教室で教員や学生がぎっしり集まって、何やら学生への授与式のようなこと
をやっていた。卒業式の季節ではないから、冬学期の大学院の優秀者表彰か何か
なのかしら。まあ、私はこの大学の数学科で何が起こっているのか全く知らないし、
そもそも関心もない。
旧市街では、まずマリエン教会で専属オルガン奏者のZ氏の練習を 聴いた。しかし私が来てから15分ほどで終わってしまったので、 冬物のコートを買いに街に出る。
12月のヨーロッパは何十年ぶりかの寒波が吹き荒れたが、1月に入ってからは 暖冬気味で、日本の3月上旬ぐらいの気温が続いている。このまま暖かくなるな ら冬物のコートなど要らないのだが、今着ているものはファスナーの留め具が 壊れてしまったし、もう10年以上着ているのでかなりくたびれてきた。 だから、まあ、新しいのを買っておこうか、と。
今着ているコートは2000年の9月から半年エッセンに滞在した時に、 エッセンのGaleria Kaufhofで買った。当時はまだ別送品輸送サービスというものを 知らず、迂闊にも「ゆうパック」で冬物衣料などを日本から送ってしまい、 ドイツ関税局で何週間も足止めを食ってしまった。冬物衣料が手元に届かないう ちに10月の半ばも過ぎ、亜熱帯の日本と違ってかなり肌寒くなってきたので、 仕方なく現地調達したというわけだ。
今日はオスナブリュックの街の衣料品店をいくつかあたり、結局 今着ているものと同じOliverというブランドのものを買った。
2000年9月からの最初のドイツ滞在は夢と希望に溢れたままで終わった。 今着ているジャンパーにはその時の思い出が沁みついている。2004年 4月からの2度目のドイツは、失意の日々だった。気晴らしに出掛けた ミュンスターやゲッチンゲンやハイデルベルクやケルンの街には、今も その頃の思い出が残っている。さて3度目のドイツはどうかしら。まあ、 ここに着いた最初の日から嫌な予感はしていて、それは的中してしまった。 しかしそれを他のところで挽回して「元を取る」べく全力を尽くし たつもりだし、まあ、その作戦はほぼうまく行ったのではないかと思う。 今日買ったコートには、そんなほろ苦い思い出が沁みつくのかしら。
それからLeysieffer本店も覗いてみた。ドイツでもバレンタインデー はあるけれど、日本のような盛り上がりはない。しかしLeysiefferは 赤いハート型の缶に入ったプラリーネのセットを売り出している。 で、誰が買っていくかと内偵したところ、若い男が1人と私よりすこし 年長のオジサンが1人買っていった。テレビでもちらっと若い男が若い女に チョコレートを渡すコマーシャルが出ていたが、ドイツでは男が女に チョコを贈るようである。
あと哲学者の健在ぶりと黒眼鏡が置いていった荷物を確認して、ゲストハウスに 戻り、夕食を挟んでしばし数学。
2,3日前にスーパーのレジの人が、ひとりひとりの客に「パスモ?」と 聞いていて、その意味が分からなかった。それでレジが終わってからも アイヌ語研究の金田一京助よろしく、しばらく近くに 居て「パスモ?」を何度も聞いてその意味を調べようとした。 どうもレシートは要りますか?と聞いて いるようにも思えたが。結局よくわからなかった。
詳しいことは忘れたが、それから数日以内に別の店で「カスモ?」と言うのが 聞こえたが、やはりよくわからなかった。
昨日ミュンスターに行って、駅の本屋で市街地図を買った時、レジのお兄さんが"Wollen Sie den カスモー?(『カスモー』要りますか?)"と聞くので、 それはきっとレシートに違いないと思い、"Ja, ja, bitte!(はい、はい、下さい!)"と言ってもらった。 レシートに「カスモー」の綴りが書いてあるかと思ったが、何も書いてなかった。
そして今日、コートを買うために あちこちの店を探索していると、レジの人が「カッセーボー?」と言っているのが 聞こえた。そうか、カッセ Kasse かと思い電子辞書を調べ、とうとう Kassebon (レジのレシートのこと) だと分かった。 「パスモー?」でも「カッセボー?」でもなく「カッセーボン?」と言ってた のだ。「パスモー?」以前にも同じことを店の人が言ってたのだろうけど、 全然聞き取れてなかったようだ。
昨日の電撃的天啓といい、今日のパスモー問題の解決といい、最近の私は冴えてますね。数学研究もこんな調子で行けばいいんだど、、、と今日もまた言ってしまった。
2011年2月10日(木)
<<オフ>>
今朝起きがけに電撃的天啓。B先生は一体どういう人間と理解すれば良いか
長らく分からなかったのだが、「ああ、そう考えれば全て辻褄が合う」と
得心した。
それとほぼ同時に、まるで連鎖反応のように、昨年11月の フランスの研究集会で、下手な英語でB先生に私の日誌の翻訳サービス をしていた、嬉しがりの日本数学者が誰だかわかった。 最後2人まで絞り込まれた後も折にふれて内偵を続け、この2人 のうち、どちらかというとこっちかな?という目星までついていたのだが、動 機が不明だった。
しかし実は1人には動機は十分あり、もう1人にそこまでする 動機はありえない。なるほど、あの男か、と。3カ月頑張って、やっと謎が解 けた。ま、数学研究もこんな調子で進むといんだけどね。
昨日CD衝動買いで気晴らしをと思ったが上手く行かなかったので、今日は 仕事をオフにして小旅行に行こうと思い立つ。題して
Projekt "Muenster" mit Schwerpunkt Kirchen (教会を重点領域とした「ミュンスター」プロジェクト)
昼過ぎにICに飛び乗って30分ほどでミュンスターへ。新快速で 京都から大阪に行く感覚である。ミュンスターについてから、 適当にドイツっぽいレストランに入って遅めの昼食。 ドイツの伝統的なレストランの雰囲気って、大体分かってきたな。 予算は2000円前後。調度品は茶色や黒を基調にした重々しい感じで、 店内は薄暗く、白熱灯や蝋燭の灯りを使う。若い人はもっと現代的な 雰囲気のところを好むのか、客層は高齢者が多い。特に今日は平日の 午後とあって、客は年配の年金生活者ばかり。それから夕方まで中心街のほぼ全ての教会を回ったけど、ミュンスターの 看板になっている聖パウロス大聖堂教会を除いて、内装の立派さはオス ナブリュックの教会とあまり変わらんなと言う感じ。
18時頃のICに乗ってオスナブリュックに戻る。19時頃の大通りには まだ哲学者が座っていたが、薄暗い明りのところで紙コップのコーヒーを飲みながら 本に読みふけっていた。あの男、老眼鏡とか無くても平気なんだろうか。 目が強いんだろうな。
ミュンスターにも物乞いが多かったが、教会の入り口で母親が小さな子供に 小銭を持たせ、物乞いに渡させているのを見た。うーん、やっぱり日本とは 精神構造が根本的に違うな。
2011年2月9日(水)
<<手巻き煙草>>
週に1度1時間だけB先生との会話が許される日。今日の議論のために仕込んで
おいたネタを、さっと見直してから出勤。しかし何か先方に事情でもあるのか、
今日は本当に雑談だけで終わった。何の事情だか、週に高々1時間しか顔を合わさな
い人のことだから、分かりようがない。
メンザで昼食の後、図書館で資料を物色。マンフォードの曲面の分類論など。 1,2年前はチンプンカンプンだったけど、今なら読めるかな、というか、読まない とまずいんだけど。他にアティヤの古い論文もコピーしたが、これは眺めるだけ でよかろう。
それから気晴らしに街に偵察飛行に出る。人手不足(?)のマリエン教会はもう 閉まっていた。概してカトリック教会は長時間一般開放されているが、 プロテスタント教会は割合限定された時間帯しか開いてない。これはドイツだけの 傾向なのか、そして、プロテスタントは本当に人手不足なのか、あるいは 信仰に対する考え方の違いが教会の運営に表れているだけなのか。これらの問題に ついてはまだ十分解明されておらず、今後の調査課題の一つである。
大聖堂教会には黒眼鏡の荷物だけがあった。大通りの哲学者は 本に読み耽りながら何やら怪しげに手を動かしているので、早速すこし離れた 所に人待ち顔で立って横目で極秘内偵開始。どうやら彼は手巻き煙草を吸って いるようで、煙草の葉を紙で巻き、紙の端をぺロりと舐めてくっつけ、 ライターで火をつけて美味そうに吸っていた。 見掛けは手巻き煙草専用の葉っぱだが、実はシケモクを集めてほぐしたものかも しれない。その辺は目視による観察だけでは特定できない。
近くで例の歩き物乞いが居て、ふらふらと哲学者の方に 向かっていったので、また何か起こるのでは?と緊張が走ったが、 先日のように哲学者に上納金(?)を渡すでもなく、そばを 通りすぎて向うに行ってしまった。
Neumarkt近くにある大学図書館の、平日だけは一般開放されているトイレ で用を済ませてからSATURNへ。こんな日はやっぱりCDの衝動買いかなと思って 色々物色したけれど、これといったものはなし。 ジャケットは私好みの仕上がりだけど、バッハの無伴奏チェロ組曲を ノコギリを引いているようなチェロの音で弾いているのは当然パス。 シューベルトの「美しい水車小屋の娘」って、あのテノールの異様に明るい歌を 聴く気分じゃないなと、これもパス。そもそもテノールってポマードの臭いがし てきそうで、あんまり好きじゃないのよね。やっぱり脳天をかち割って脳味噌を 烏賊の塩辛のようにかき混ぜてくれるソプラノでなくっちゃ、刺激が足りないのよ、と。 ヒラリー・ハーンが現代曲を弾くという新しいCDが出てたけど、何となく アメリカ人の曲だなって感じがするので、今日はパス。 スーパーで買い物をしてゲストハウスに戻る。夜は少しだけ数学。
今日のコロキウム最終回はキャンセルとなり、これでゼミもコロキウムも全て 終了である。エッセンのOberseminarも先週が最終回。あと2月3月はあちこちで 研究集会が開かれるが、私が面白そうと思うものは、オックスフォードでも リュミニーでも全て「馬鹿は来るな」と門前払いを食ってしまった。 馬鹿に生まれついたことを、つくづく後悔する日々である。
となると、残る1ヶ月あまりをどう過ごそうかしら。B先生との「会話」も 理論上はあと7時間程度認められているが、正味は6時間ぐらいで、 そのうち2時間ぐらいは当方にはよくわからない事情でキャンセルされるものと 予想されるから、4回4時間弱と見積もっておけばよかろう。
それ以外は、近場で適当に私的旅行などをしながら勉強してるかな。 まあ、勉強しなくてはいけないことはいくつかあるし。
2011年2月8日(火)
<<子供騙し>>
今朝は2度寝して、起きたのはかなり遅かった。軽く朝食の後しばし数学。
13時半頃ゲストハウスを出て大学へ。メンザで遅めの昼食の後、研究室
で数学。16時15分から1時間ほど大学院の合同セミナーの講演を聞く。
今日の講師は「大コーラ君」。つまりレストランでコーラの大サイズを注文し、
支払いの時に「僕はコーラと○○を取りました」という意味で、
"Ich bin ein groses Cola (僕は大コーラです) und ..."と言って
いたネイティブ・ドイツ人学生。セミナ−終了後、すこし遠回りして大学近くの
スーパーで買い物をしてから、ゲストハウスに戻る。夜も少しだけ数学。
最近上の階のロシアのシコ踏み女が静かになったと思ったら、いつの間にか ロシアに帰ってしまってて、新しくイタリア人が住んでいるようだ。イタリア人 はシコを踏まない。
そういえば同じ階に昨年12月頃にやってきたスロバキア人は、ゲストハウス のクリスマスパーティーの時に、ドイツ語の個人レッスンを受け たいので誰か良い先生は居ないかと管理人に聞いていたから、長く居るのかと思 っていたが、私がパリに行ってる間に出ていったそうだ。 かように人の入れ換わりが激しく、いつの間にか私もゲストハウスの古老みたい になってきた。
昨日メンザに行ったら、入り口の黒板に今日のメニューのひとつ として"Rinderhacksteak (牛肉ミンチのステーキ"とあったので、おっ!タタールステーキかいな (Tatarsteak)と思ったが、その後に"...im Broetchen"と続いている。はてな。 ブロートヒェンに挟んだ「タタールステーキ」って 何だろう?と思ったら、、、ただのハンバーガーでした。
話は変わるが、先日ふとWikipediaで「都市伝説」を調べたら、医学部の解剖実習用死体洗いのアルバイトが都市伝説の一つとされていた。曰く、ホルマリンは揮発性があるので、プールのような所に遺体をホルマリン漬けにして保管することはあり得ない。曰く、各大学の医学部の事務には毎年数件問合せがあるが、「そんなに割のいいバイトがあれば、私がやってます!」と事務員が逆キレして電話を切ったとのうわさもある。曰く、「昔はそういうバイトがあったが、今はもうない」ということも都市伝説の一部として広く流布している。Wikipediaでは、これが全部根も葉もない嘘だとしている。
私の中学の頃だか、実家に出入りしていた大学生が何人かいて、その中にメガネ君 と呼ばれる苦学生がいた。念のため書いておくが、「苦学生」とは大学の勉強が難しくて単位を取るのに苦労している学生という意味でも、数学科のゼミで教授にアホだ バカだ頭がバグっていると吊るし上げられて、その苦しさのあまりマゾ的人格形成 に突っ走る学生という意味でもなく、単に経済的に苦しくてアルバイト を沢山している学生のことである。彼の実直そうな人柄を見込んで両親も出入りを認めていたのだが、彼がある時、自分は色々なアルバイトをしてきたという話をして、 その中で「三重大医学部病院の死体洗いのバイトもしました」というのがあった。
「そうしょちゅうあるものではないので、今はやってない」とか「バイト料はいいのだけど、やっぱりホルマリン漬けの死体を見るのは気持ちのいいものではなかったですね」とか「電球1個だけの薄暗い部屋で、ホルマリン漬けの死体と目が遭ったりすると、ぞっとします」みたいな、もっともらしいことを言っていた。私が子供だと思って子供騙しの嘘をつきよったのかと、40年後の今沸々と怒りがこみ上げてくる。 しかし今となっては彼の名前も所在も何もわからないので、何とも仕様がなく、 全てはまるで夢のようである。
2011年2月7日(月)
<<勉強すること、多過ぎ>>
掃除の日。8時前起床、9時出発。一度に高額のお金が下ろせる
コマツバンク(小松銀行?)でお金を下ろし、送金手数料の安い
シュパーカッセ(貯蓄銀行?)で家賃を振り込む。その後、教会と
黒眼鏡、哲学者などを偵察。
まだ朝の9時台だったので、黒眼鏡も哲学者も「出勤」してなかったが、 市立図書館軒下に行ってみると哲学者がいた。私が近寄ると、警戒して驚いた ようにこちらを見たが、私は知らん顔して通りすぎたふりをして、 また戻って横目で偵察。もう起きてるようだったが、布団のようなものを 頭からかぶって胡坐をかいているような感じだった。 身支度をしているようでもあり、ひと目を忍んで朝食をとっている ようでもあるが、実際のところ何をしているのかは不明。
それから市庁舎でトイレを済まし、ついでに市の歴史名所案内パネルみたいな ものを見てみたら、市庁舎の近くに13世紀だかに作られた石づくりの家 (Steinwerk)があることがわかり、早速行ってみた。 一応どこかの個人の事務所になっているようだが、事務所が開いている 時間帯は自由に見学できるそうなので、入ってみた。
ドイツの家は壁は煉瓦か石、床は木の梁を通して板を置き、さらに屋根は木 でつくるのが普通だが、この家は屋根も石で作ってあるところが見どころらしい。 屋根裏部屋に入ってみたが、阪神淡路大震災を経験した日本人の感覚では 「ここで地震が来たら、この天井の石が全部落ちてくるのかよ?」と長居をするの が恐ろしい。こんなのは地震の無いドイツだからこそ出来る建て方で、地震の多い 日本やイタリアやトルコだったら、とうの昔に倒壊して残ってないだろう。
それから大学へ。メンザでの昼食を挟んで午後まで研究室で数学。早目に ゲストハウスに戻って洗濯。先日みたいな目に遭わないためにも、 まずは洗濯機とアイロンの両方が空いていることを 確認し、洗濯機をセットしてその場を離れるときにはアイロンも持っていく。 夕食後、夜も少し数学。
昼間、某論文を眺めていて、ふと、代数幾何学にも深入りしすぎて、いよいよ 引き返せないところまで来てしまったなと思った。まあ、もう可換環論には戻らない 積りではいたが、実のところそれほど深く考えたり決心していたわけではない。 何となく海を泳いでいてふと気付くと、もう岸はずうっと遠くになってしまい、 潮の流れはいよいよ強く、これはもう頑張って遠くに見える離れ小島にたどり つくか、さもなくばここで溺れるしかないな、みたいな雰囲気なのである。
オスナブリュック大学はドイツの可換環論研究の中心というか、ドイツの大学 ではもっともスタッフが揃っている。しかし「もう可換環論やめようかな、、」 みたいなことを中途半端に考えながらそういう所に行って色々なことを経験すると、 すっぱり足を洗う決心がつくというか、「もういいやって」気になるのである
それにしても「離れ小島」は思ったよりも遠いというか何だか逃げ水みたいで、 「働けど働けど我が生活良くならず」よろしく「学べど学べど我が研究開始 せず」で、「じっと手を見る」今日このごろである。大体、代数幾何学って 勉強すべきことと 多過ぎるよな。
2011年2月6日(日)
<<親が五月蠅い?>>
午前中は日曜日でも開いている遠くのスーパーに行き、昨日買い忘れた食料品
を中心に買い物。ゲストハウスに戻り、昼食。午後は数学。数年前から
年に一度ぐらいの割合で一念発起して挑戦しては玉砕している某有名論文に
2,3日前から再挑戦している。そろそろちゃんと証明まで含めて
理解しないと、いつまでも誤魔化しは効かなくなってきたし。
夕方には2時間ほど偵察飛行に出る。黒眼鏡は大聖堂教会の入り口の薄暗い 灯りの下で、分厚い本に読みふけっていた。哲学者は市立図書館の軒下に巣 くっていたが、遠くから確認しただけなので、荷物だけ置いてどこかに外出中 だったかも知れない。
まだ若そうな黒眼鏡の呑気そうな顔を見ていると、ふと、この男は自宅に 居ると「お前、ぶらぶらしてないで、ちゃんと働け!」と親父が五月蠅いので、 昼間は教会に来て物乞いで煙草銭や本代を稼ぎながらのんびり過ごしているのかも? という気がした。で、夜になったら家に帰って、親が作った晩御飯を食べ、 暖かいベットで寝ているとか?物乞いに対して寛容な国なので、母親が 「お前、乞食の真似だけはやめとくれ。親として世間様に顔向けできないじゃないか」 みたいな事を言うことはないだろうし。
ドイツに来て4カ月余り。そろそろ体のあちこちが固まり始めて何となく 調子が悪い。今日はペテルスブルク通りと駅前の2つのスポーツクラブに行って、 年会費とかそういうのではなくビジターとして単発で利用できるか聞いてみた。 駅前のは1日券19ユーロで運動靴などの貸出はしないとのこと。 ペテルスブルク通りのは詳しく聞かなかったけど、24時間営業で運動靴などの 貸出はできてゲストとして単発利用は可能とのこと。でもやっぱり、ゲストハウスで 自分でストレッチとかやってお茶を濁すかな、と。
オスナブリュック中央駅のパン屋のカフェのトイレは、日曜日の恒例で 自由解放されていた。よろしい、ならばしばらくここですごすことにしようと、 コーヒーとクロワッサンを注文し、しばし数学。
偵察飛行から戻り、夕食。夜も少し数学。
2011年2月5日(土)
<<言葉を忘れる>>
昼前にふと洗濯場を覗いてみたら、ようやくアイロンが戻っていた。
とり急ぎアイロン掛け作業。終了後、昼食とスーパーへの買い物を兼
ねて偵察飛行に出る。今日は気温は10度ぐらいと暖かいが風が強い。
大聖堂教会の入り口は強風のために閉鎖され、別の扉が臨時に使えたが、 黒眼鏡は不在。礼拝堂の中を一回りしてから、大通りの哲学者の健在を 確認し、さらに進んでヨハン通りのトルコ茶飲み放題のケバプの店へ。 今日はDoenerteller(ケバプ、野菜サラダ、フライドポテト のテンコ盛り)でガっツリ行こうか、と。
昼食後、近くの聖ヨハン教会を少し偵察の後、近くにスーパーを見つけたので そこで少し買い物。さらに戻ってSaturnでCDを物色。リヒテルのアメリカ 初録音盤という激安物件が出ていたので試聴してみたが、ブラームスのピアノ 協奏曲が恐ろしく遅いテンポで鳴り出したので、「これはパス」と。 今日は何も買わずに店を出る。
それから本屋でトロントの観光ガイド本と 「弁護士語・ドイツ語辞典」(Langenscheidt社)を購入。トロントの会議は8月 だが、ドイツ語の観光ガイドはドイツに居るうちに買っておかないと面倒である。 それから、Langenscheidt社は辞書で有名な堅い出版社だが、 ポケット版辞書と同じ真面目腐った装丁で「猫語・ドイツ語辞典」とか 「男語・ドイツ語辞典」とか「女語・ドイツ語辞典」とか 「上司語・ドイツ語辞典」みたいなシリーズも出している。 この「弁護士語・ドイツ語辞典」は現役の弁護士が執筆していて、 例えば次のような感じである。
弁護士語:Ich kann den Fall leider nicht uebernehemen, weil ich
arbeitsueberlaster bin.
(ちょっと仕事が立て込んでまして、残念ながらこの案件をお受けすることは
できません)
イツ語訳:Mit deinen Fall verdiene ich nichts. Geh zu einem anderen Anwalt.
(お前さんの案件では儲けが無いや。他所の弁護士の所に行ってくれ)
たぶんこれは序の口であろう。ドイツ人の冗談は高度なものになるほど理解不能 の域に近づく傾向がある。奴らは十分「ぬるい」くせに、冗談は激しくブラックだ。
本屋の帰りに、また哲学者を視察したが、本は読まず煙草を吸っていた。 それからもう一度大聖堂教会を偵察したが、今度は黒眼鏡が臨時の出入り口の ところに居て、本に読みふけっていた。
黒眼鏡と哲学者はどうも親子ではなさそうだし、黒眼鏡はどうか知らないが、 哲学者の自宅は市立図書館の軒の下である。彼らが誰かと話をする機会はほとんど 無いと思われるから、彼らが本を読んでいるのは言葉を忘れないようにするため、 つまり人間であることを忘れないようにするためかも知れない。たとえ誰とも話 さなくても、自分と話すためにも言葉は必要だ。この日誌みたいにね。
マリオン教会に立ち寄ったら、オルガン奏者のZ氏がオルガンの練習をしていた。 時々間違ったり詰まったりしているけど、パイプオルガン無料コンサートが聴ける チャンスを逃す手はない。オルガン生演奏をBGMにしばし数学。トイレがしたくなったので、先日見つけた礼拝堂横の教会事務所兼教会関係者住居の建物のトイレ に行ってみたが、案の定今日は入り口のドアはgeschlossen状態だった。それで、 まだ「無料コンサート」は続いていたが、ゲストハウスに戻る。
夜も少し数学。
2011年2月4日(金)
<<国際外交の難しさ>>
午前中はゲストハウス。来年度の卒研生とメールのやりとりをして、とりあえず
ハーツホーンをメインのテキストにして、副教材としてアティヤ&マクドナルド
を使うことに決まった。凄いですねえ。そんな賢い子たちが卒研に入ってくるの
かしら、と。
私は学部生の頃、マンフォードの複素射影代数多様体論で青息吐息で、 この本の次に読むべきハーツホーンは、 大学院に行ってから読めるようになれたらいいな、、、などと 思ってて、結局大学院には行けなかったんだけど。
それでとりあえず春休みの課題として、可換環論の基本問題を数題出して おく。ゼミを始めたらすぐにでも必要な基礎知識に関するもの。
無線LANの調子が悪いのでPCを持って廊下に出たら、たまたま 管理人さんが居たので、「ここ2日ばかりアイロンが見当たらない」と訴えた。 1つしかないアイロンを持ちだしたまま返さないアホは誰か? 前からゲストハウスに住んでいるA国の家族連れだろうと思ってたが、 そういえば彼らは今までアイロンを持ち出したことはない。 最近色々人が入れ換わって新しい人が入ってきてるから、 もしかしたらB国のX氏かもしれないしC国のY氏かもしれないと、 容疑者を絞りこむのはむずかしい。
各部屋に設置されているゲストハウス利用の手引にも、「アイロンは 使い終わったらすぐに返してください」と書いてあるのだが、 そんなものはいちいち読んでないか、そのうち使う積りといつまでも 握りこんでいるのだろう。もしかしたら、「これは高く売れるぞ」と本国に 送って売り飛ばそうとしているかもしれない。
世界には神経のず太い連中がいくらでもいるということだろう。なるほど 国際外交が難しいはずだと妙に納得してしまった。 アイロンに見る国際社会の縮図。なるほど持って行ったものを返さない国が あってもおかしくないわな。
管理人さんは、「もひとつアイロンがあったと思うから捜してみる」 と言っていたが、結局無かったらしく、月曜日に新しいのを買ってもらう予定。 でも、そこはドイツらしく
Herausbringen vom Buegeleisen nur ein Tag gueltig (アイロンの持ち出しは1日だけしか認められません)
みたいな張り紙をベタベタ張ってほしいところだな。昼頃に大学に行き、昨日のエッセン出張の精算手続きをしてからメンザで昼食。 4人掛けの小さなテーブルにオジサンが1人居て、そこに相席して昼食をとった。 で、オジサンは先に食べ終わったのだが、立ち去る時に小さな声で 「Wiedersehen!(さよなら)」と挨拶して行った。ドイツ人でもこう いう事を言う人は稀だが、日本なら皆無だろう。どこの馬の骨かわからん奴に何で 挨拶などするものか。それにそんな事をしたら「誰や?こいつ。頭のおかしい 危ない人かもしれんぞ」と、かえって警戒されるであろう。ドイツ人のこういう 「ぬるい」ところって、結構好きだな。
え?それで、挨拶されたお前はどうしたのかって? そりゃあ勿論私も日本人ですから、(何や?こいつ)とか思いながら知らん顔 してましたけど。
その後、研究室で食後のコーヒーとしばしの数学。それから旧市街に繰り出し、 偵察と買い物。マリエン教会では何か行事があったのか、オルガンがちょっとだけ 鳴っていた。大聖堂教会の黒眼鏡は煙草を吸いながら集まった小銭を数えていた。 そうか、黒眼鏡の煙草代を寄付する「ぬるい」人たちって、ドイツには結構いるん だよな。
遠くの大通りに「哲学者」の姿が見えたが、どうやらティーンエイジャーみたいな 女の子が哲学者に何か話しかけているようだ。これは断固調査 せねばならぬ!と光速急行。彼らの近くに行き、人を待っているような顔をして内偵。女はスペイン語かポルトガル語みたいな強い訛りのあるドイツ語で、 「何で貴方は一日じゅうこんな所にいるの?」みたいな事を聞いている。 哲学者は何かぼそぼそ答えていたが、よく わからない。彼の声を聞くのは初めてだが、想像していた通りの声だ。
しばらくやりとりしていたと思ったら、最後に女が「あっそう。じゃあ、いいわ。 サヨナラ」と言ってちょっと不機嫌な感じで去って行った。良く見るとティーン エイジャーみたいな格好をした、ティーンエイジャーの倍前後の年齢と思われる 女だった。残された哲学者は不満げになにやらぶつぶつ独り言を言っていたが、 何を言っているのかよくわからなかった。ああ、こういう時のためにも、 ドイツ語をもっとちゃんと勉強しとくんだったなあ、と激しく後悔。
旧市街のスーパーで野菜などを大量に買い込んでゲストハウスに戻り、 久々にレンズ豆の煮込みを作る。夜はまた少し数学。
2011年2月3日(木)
<<空振り>>
午前中は昨日のB先生との「雑談」で気になったことや、今日の大先生突撃
生インタビューの準備のため、以前ダウンロードした論文に目を通したり、
日本から持ってきた本をひっくり返したり。
昼前にゲストハウスを出て、 マリエン教会、大聖堂教会と黒眼鏡、中心街の哲学者を速攻で偵察しながら、 オスナブリュック中央駅に向かう。
黒眼鏡は煙草を吸いながら本を読んでいた。で、哲学者も全く同じ ことをしていた。どちらもシケモクではなさそうである。煙草を吸うと ニコ中になって毎月確実にいくらかは煙草代が必要になるから、本当に 生活に困っていたら真新しい煙草など吸ってられないはすである。 その辺の切迫感の無さが、人生を学ぶ対象にはなっても、彼らの差し出す カップに小銭を入れる気になれない一番の理由である。
オスナブリュック中央駅で簡単に昼食の後、12時37分発の ICに乗り14時頃にエッセンに到着。夕方のセミナーまで時間があるので、 教会めぐりをしたりThalia書店エッセン店で数学の本を買ったり。 今日買った本は Christian Karpfinger & Kurt Meyberg の"Algebra -- Gruppen-Ringe-Koeper" (Spektrum書店)。書店ではビニ本状態で中身を見ることができなかったが、 裏表紙に具体例に重きをおいた学部レベルの代数の教科書と銘打ってあったので、 講義の資料に使えるかなと思って買った。
エッセンのセミナー会場に大先生の学生がいたので、「大先生は来るのか?」 と聞いたら、「たぶん来ないと思う」という。それで突撃生インタビューは空振り。 セミナー講演の後、速攻でエッセン中央駅に戻り、帰りのICの切符を買ってから 夕食。ICは珍しく定時運行し、オスナブリュック中央駅からのバスの接続 も順調で21時にゲストハウスに戻る。
さてアイロン掛けでもと思ったが、昨夜アイロンを持ちだした輩がまだ 返してない。こういうだらしない迷惑行為をするのは、、、また、あいつら だな、と。
それで予定を変更して、大先生突撃インタビューをメール版に切り替えて 質問状を作って送信。これで機嫌良く返事してくれたらいいのだけど、 「何度も何度もしょーもない質問してくるな!アホ!」みたいな感じで、 キレ者数学者ってすぐにキレるからなあ。どうなることやらと心配する 気の小さい私。
そういえば、パリのポアンカレ研究所で開かれる研究集会の案内が届いた。 ダイナミックスと幾何学研究集会。うーん、ちょっと私の興味とは方向性が 違うような気もするのだけど、、、どうしようかなあ。参加申し込みは、もう 少し様子を見てから考えることにする。
2011年2月2日(水)
<<馬鹿は目立つ>>
午前中はB先生との定例(数学的)雑談を1時間ほど。まあ、週に1回ぐらいは人間と
話をしないと言葉を忘れてしまうからね。メンザで昼食の後、研究室で食後のコーヒーを飲んでからゲストハウスに戻り、しばし数学。夕方頃旧市街に偵察飛行に出る。マリエン教会はもう閉まっていた。大聖堂教会の黒眼鏡は荷物と自転車を置いてどこかに行っていた。教会の中を一回りしてから、さらに街の中に進み、哲学者の様子を視察。うつむき加減にじっとしているので、居眠りでもしているのかと思ったら本を読んでいた。
私は何故黒眼鏡と哲学者の偵察を続けるのかというと、それは彼らから 人生の生き方を学びたいからである。
スーパーで空き瓶などをリファンドしてもらい、少し買い物をしてから またゲストハウスに戻る。一息おいてから、再び大学へ。17時15分からの数学コロキウムを聞きに行く。今日は確率統計の話だった。18時15分に終了後、すぐにゲストハウスに戻り、洗濯をしながら夕食の準備など。夜は昨日書き上げたレビューの最終チェックをしてメールで送たり、少しだけ数学をしたり。明日はエッセン出張。いよいよ大先生突撃生インタービュー敢行か?!
少し前に、「言葉通りの意味だったのか」と、フランスの研究集会の参加申し込み に対して定員一杯につき参加お断りのメールが来たのを素直に受け止めた(1月17日)のだが、どうもそうでもなかったようである。つまり、会議のオーガナイザーの裁量 で、ひとりふたりこれと思う人を参加者として押し込むことは可能だったようだ。 ここにはヨーロッパらしい「一元さんお断り」原理が働いているのかもしれない。
あとはあまり詳しくは書けないけど、別の研究集会で、その会議のオーガナイザー の一人なのに、「お前はこの会議に参加しないか。え?知らなかっただと?じゃあ、 今からでも何とかなるから来るか?」と一言ぐらい声を掛けてくれても良さそうな ものなのに、知らん顔を決め込む人も居るしね。
まあ、ヨーロッパに限らないのかもしれないけど、こういう厭らしい話は 色々ある。ああ、そういえば!私も日本で開かれた国際研究集会で、参加申 し込み期限を過ぎてから初めてその会議のことを知り、知り合いの オーガナイザーの先生に拝み倒して参加させてもらったことがあったな。 まあ、数学者社会でも、というか、数学者社会だからこそ、コネは大事なんだろうね。 日本もコネ社会かもしれないけど、ヨーロッパの(数学者)社会も 相当なコネ社会だと思われる。
コネは単に人と会って色々話をすれば作れるというものでもなく、「あいつ に会って色々話をして分かったけど、ただの馬鹿だな」と思われると、逆コネと いうか、ブラックリストに載ってしまうかも知れない。
まあ、馬鹿なんだから馬鹿と思われるのは仕方がないのだけど、逆コネに伴う 諸々の不利益を最小限に抑えるためにも、できるだけ馬鹿であることを隠して秘 かに事を進めることが肝要である。しかし馬鹿であること自体は隠しようがなく、 むしろ数学者社会では馬鹿は目立つのである。ならば自分自身を隠せばよろしい。 私の場合、コネによって得られる利益よりも、逆コネのよって失う損失の 方が深刻である。つまり、被害を最小限に食い止めないとやりにくくてしょうがない。
座敷童作戦はまさにこのような理論的背景でもって展開されているのだが、 果たしてうまく行ってるのかどうか。先日パリであった日本の院生、何で彼が 俺サマのことを知ってるのかしら?って考えると、皆さん、「ああ、あそこに 馬鹿の高山がいるな」とか思って黙ってるだけなのかなあ、と。
(と、また自虐病の発作が起こってきたけど、まあ、話を続けよう)
仮に日本で「馬鹿の高山」が水面下で広く数学業界で認知されていると しても、今のところ「馬鹿の参加はお断りいたします」と研究集会参加に門前 払いを食ったことはない。それに対してヨーロッパは酷くて、これまで の経緯を纏めると、マックスプランク数学研究所には一番乗りで申し込みを したけど、結局「馬鹿は来てはいけない」と蹴られたし、ケンブリッジの ニュートン研究所の研究集会には「馬鹿を押し込む定員の余裕などございません」 と蹴られ、リュミニーの研究集会は1度目はオーガナイザーに知らん顔され、 2度目は「馬鹿を押し込む定員の余裕はございません」と蹴られたわけである。
かと言って「連戦連敗」かというとそうでもなくて、捨てる神あれば 拾う神あり。エディンバラや ベルリンの研究集会は暖かく迎えてくれた。今度ポアンカレ研究所で開かれる 研究集会は、オーガナイザーの人が案内を送ってやると言ってたし。 この研究集会も「その後当方で独自に調査を行った結果、貴方は馬鹿だと分 かりましたので、参加を見合わせていただきたく存じます」みたいなメールが 飛んでくるかも知れないけど、まあ、とりあえずそういうことは無いと信じて おこう。すると結局南フランスとイングランドが駄目なわけね。
それで昨日はカナダの研究集会に、たぶん一番乗りで申し込んだのだけど、 どうなることやら。マックスプランクみたいな蹴り方をしてくるかもしれないけど、 今のところ 「馬鹿をより分けるための参加者選考をします」というようなニュートン研究所 みたいなことは書いてなかったから、先着順原理が機能して、結局大丈夫かも知 れないと今のところは楽観しているが、油断はならないな。
というように、馬鹿は色々気苦労が多い。
2011年2月1日(火)
<<姑息な計算>>
今日も気温は零下で寒い。午前中はゲストハウスで数学。昼過ぎに大学に出掛け、
メンザで昼食。大学の近辺の広い範囲で刺激臭のするガスが漂っていたが、あれは
何なのだろう。
研究室で食後のコーヒーを飲んでから図書館に籠り、 16時過ぎから1時間ほど大学院セミナーの講演を聞く。 専門外の話なのでサボろうかなとも思ったが、案外面白い話だった。
セミナーの後、すぐに大学を発ち、スーパーで買い物をしてからゲストハウスに 戻る。夕食の後は、督促が来ている3件の論文レビューの最後の1つに着手。 短い論文なので1時間ちょっとで論文に目を通してレビューも書き終える。 明日もう一度レビューの文面をチェックしてからメールで送って作業終了の予定。
それから、アメリカ数学会の未着督促レビューの件で、先方からメールが届き、 至急オスナブリュックの方に資料を送り直すとのこと。レビューの仕事はもう少し続きそうである。
レビューの仕事はじゃんじゃん入ってくるが、査読の仕事は滅多に来ない。 証明の隅々まで読んで正当性をチェックし、さらには内容の価値判断まで求められる 査読は、レビューよりも遥かに高い能力が要求される。従って怪しい高山に依頼 できるのはレビューまでで、査読はもっとマトモな人に依頼するという 正しい判断が背後に働いているものと覆われる。まあ、別に査読の仕事がしたい わけではないから、それはそれで私にとっては都合がよいのだが。
かく言う私も、今まで2回査読の仕事が回ってきた。最初は数年前で、 私が「死ぬまでに1回ぐらいはあの雑誌に論文を発表したいものだ」と 思っている有名誌からの依頼。大学院入試に落第した私が、院試問題 を作って受験生を選考するにも似た話である。その頃はまだ自虐の病で弱って いなかったから、「俺サマのような何も分かっていないチンピラに査読を 依頼するとは、一体この雑誌の編集者は何を考えているのだ?アホ!」と 蹴飛ばした。いやあ、あの頃の私は元気やったねえ。
その後数年して、最近また同じ雑誌から査読の依頼が来たが、その頃はもう 自虐の泥沼に這いつくばっていたから、「苦節ン年、俺サマもやっと専門家の端くれ として認められたか」と、うるると涙して快く引き受けた。しかしこれには、 その専門から既に足を洗っていたということも関係している。
私にも人並みに「誰かに評価されたい」という気持ちがあって、 しかも過去20数年を振り返るに、大した能力も無いくせに、専門を変える毎に 前より難しい分野に進んでいるため、「誰かに評価される」チャンスはどんどん 少なくなっている。そこにひねくれ者の性格が絡むとどうなるかというと、 誰にも気づかれないところでコソコソ頑張って、成果が出たころにさっと別の分野に 移り、その後で人々がその成果を評価してくれたら、それを見て「愚か者どもめが、 今頃俺サマの真価に気づいたか。でも俺サマはもう君達の所には居ないんだよ。 Je marche plus loin!だ、ざまあみろ」とほくそ笑む、、、という戦略を思い描く のである。それで2度目の査読依頼は、まさか成功するとは思ってなかったこの 戦略が少しはうまく行ったのかなと気を良くして、二つ返事で引き受けたのである。
ところで、何故「誰にも気づかれないところでコソコソ」なのかというと、 衆人環視の中で頑張って「あいつ、頑張ってるみたいだけど、その割には 全然駄目だね」とか「代数幾何に転向したとか言って騒いでいるけど、 何時まで経っても頓珍漢な事ばっかり言ってるし、大した奴じゃないね」 みたいな陰口を叩かれるのが嫌だからである。
大した奴じゃないことは俺サマが500年前から既に知ってることだ。 今更お前らがゴチャゴチャ言うことやない、黙っとけ、アホ!と一人一人に言 って回るのも大変だから、蝉の幼虫のように地下に潜伏してようか、と。 この状態を自意識過剰という。
ついでに、何故専門を変わる時により難しい分野を選ぶのかというと、 第一義的には、単に自分が一番興味のある分野に少しずつ近づいているだけという ことだが、別の意味が隠されていることに最近気付いた。
つまり、1つの分野で食いっぱぐれて別のより易しいと言われている分野に移 ったとしても、そこでうまくいくとは限らない。どんなに易しく見える分野でも、 最前端のところではどうにもならない難問が立ちはだかっていて、物凄く優秀な 連中たちがバリバリ仕事をしている。私ごときが何ら本質的な寄与もできずに 野垂れ死にする可能性は、どの分野でもあるのだ。
で、どうせ野垂れ死にするなら、難しそうに見える分野の方が諦めがつく じゃん!と。何か、俺サマって、そういう姑息な計算を無意識にやって きたんじゃないかなって気が最近している。