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よ け ス ペ ー ス で す。

2010年5月31日(月)
<<膾を吹く>>
研究日。しかし午前中はPCのセキュリティーソフトの入れ替え作業。 単に今まで使っていたソフトをアンインストールして、別のソフトを ダウンロードしてインストールするだけなのだが、すこし微妙な問題もあり、 まさかのトラブルになったら面倒だなと、作業を先延ばしにしていたのだ。 今回もあらかじめリカバリ用にディスクのバックアップを取ったりと、 私としては「厳戒態勢」を取って臨んだつもり。しかし実際は大した問題 もなく、作業は順調に終わった。

(旧)情報学科時代はDOSVマシンへのFreeBSDのインストールや頻繁に 必要になるアップグレードで人生をだいぶ浪費したし、会社員時代の初期 の頃は、OSの開発部隊で実機デバックに明け暮れて色々苦労したりも した。それがトラウマになっていて、計算機ソフトのインストール は「もし変なトラブルが起こって、どうにもならなくなったらどうしよう?」 という不安に駆られてしまう。

実際、フリーソフトでは今でも色々どうにもならないトラブルが起こり、 例えばWindows7上のEmacsで漢字がうまく表示されない問題は依然解決し ていない。しかし今の商用ソフトは、誰でも問題なくインストールできるよう になっているものだ。それでも「羹に懲りて膾を吹く」癖のある私としては、 やはりインストールが終わるまでは不安が脳裏を離れない。

「膾を吹く」といえば、私がオジサンや数学者を嫌うのは過去にオジサンや 数学者に嫌なことをされた経験があるからであり、 学生と距離を置きたがるのも(旧)情報学科で酷い目に会ったことが 深く関係している。計算機科学の研究者を廃業したのも、自信作論文を学術雑誌 や国際会議に投稿して何度か掲載拒否されて馬鹿馬鹿しくなったからであり、 以後「膾を吹く」かのように頑なにこの学問を拒否している。天真爛漫無防備に 何かをやって何回か痛い目に会ううちに、ある閾値を超えた途端に針が一気に 反対側に振れ、それ以後抗原抗体反応というか、泥棒を見つけた番犬というか、 それを目のカタキのようにして「膾を吹く」傾向が私にはある。おそらくは自分 でもすっかり忘れてしまったことに対して、ありとあらゆる「膾を吹」くことに よって、私の今日のパーソナリティーが形成されているような気までしてくる。

午後は街に出て、河原町三条丸亀製麺の讃岐饂飩で昼食の後、寺町通上島珈琲 の「特等席」に陣取って夕方まで数学。隣に座っていた60代とおぼしき女性は、 先日もここで見掛け、計算用紙になにやら数式を書いていたので、何者か?と 秘かにマークしていたのだが、今日は計算用紙に局所解がどうのこうのと フランス語で論文の下書きのよなものを書いていた。同業者みたいだけど誰 なのかしら。私は面識がないけど。

少し早目に帰宅して、山科区内で野暮用。夜は明日の授業の準備をしてから、 また少し数学。

2010年5月30日(日)
<<幸福感に酔いしれる>>
朝は少しゆっくり起きて、簡単な朝食をとりながら、朝日新聞オチビサン、 京都新聞7つの間違い探しと時事クロスワードパズル。この時事クロ スワードパズルはスポーツ選手の名前をヒントに使うことが多く、 プロ野球、サッカー、相撲、オリンピック等等、およそ観戦スポーツには全く 関心が無い私は、いつも足をすくわれる。

それから野暮用をすませ、少し文献をダウンロードしたりしてから、 昼過ぎに自宅を出て、京都市内某所で開かれたチェンバロのコンサートを 聴きに行く。昨日と同じく天気は良かったが、家の中は少し肌寒い ぐらいなのに、外は昨日よりも少しだけ蒸し暑く、ちょっと厚着をして しまったかなと後悔。コンサートの方は全くもって素晴らしく、会場を後 にしてからも、しばらくの間幸福感に酔いしれていた。 寺町通り上島珈琲 に立ち寄って一息いれて、数学をするフリをしながらしばしコンサート 余韻を楽しんでから帰宅。

良いコンサートを聴いた時以外でも、 数学で何かちょっとした発見をしたときや、学術雑誌に投稿していた 論文が受理されたときも、やはりこういう幸福感にしばらく酔いしれる。 いずれにしても、そう頻繁にあることではない。

夜はPCの月例バックアップ。それからセキュリティーソフトの入れ替え 作業の準備をすこし。本作業は明日決行!と決めているので、今日は早々 と作業を終えて、その後は少し数学。この1年ぐらいの間いろいろ勉強してき て、代数幾何学の風景がずいぶん見えてきたけれど、私の研究に使えるような アイディアや理論がそこにあるかというと、それだけはすっぽり抜けているよ うな気がしないでもない。しかしそれは私の目が節穴だからかもしれない。 そういったことを、ぼんやり考えてみる。

2010年5月29日(土)
<<だから何なのか>>
ドイツ語寺子屋の日。昼前に自宅を出る。地下鉄の中で、スポーツ クラブでよく見掛けるオジサンが居た。私と同世代のようだが、脳 梗塞を起こしたらしく、ずっとリハビリを続けていて、杖が手放せ ないようだ。

京大ルネで昼食。ルネの書籍部は棚卸のため休みだったので、 そのまま関西日仏学館の図書室に行き、しばらくドイツ語の予習。 関西日仏学館には、私が「フランス帰りのおばさん」と呼んでいる 人がいた。もう80歳ぐらいになっていると思うが、筋金入りの フランスかぶれなのか、それとも長くフランスに住んでいた頃の ことが忘れられないのか、なんとなく(昔の)フランス(!)って 雰囲気の格好をして、よくカフェのあたりをうろうろしている。

実は以前、京都の某所に遊びに行った時、純和風の大きなお屋敷 から、そこの奥さんとおぼしき人が出てきて、警官と話をしている ところに出くわしたのだが、その奥さんが実はこの人だったので、 ちょっと驚いた。この時はフランス(!)って格好ではなく、普通に 京都のおばさんの格好をしていた。

15時過ぎから17時前まで寺子屋の授業。先週見学に来ていたケルン 帰りの某大学学生は、やはり水曜日の中級クラスにしたようだ。今日は 指物師と別の某大学学生と私の3人全員が揃った。

帰りは途中まで大学生の人と一緒。チェロをやっているというので、 コンサートを開いたりするのかとか、ロストロボーヴィッチはいつ亡く なったんだっけ?みたいな話をして別れ、それから京都市役所前まで 歩いた。今日はとても天気が良く、空気が乾燥していて気温もほどほどで 気持ちが良い。しかし日差しが強いので、外を歩く時は悪太郎サングラス が手放せなかった。

途中、何となくアイスクリームが食べたくなって、食べようかやめ ようかといくつかの店を覗きこんだりして迷っているうちに、結局 ぜスト御池の地下鉄京都市役所前駅の自販機で冷たい缶ココアを買って 飲んだ。

今日はいつもの道草はせずに河原町通と三条通と寺町通と御池通の あたりをぐるりと一周しただけでぜスト御池まで戻った。ぜストの 催物広場では、岐阜の方から人を呼んでその地方(郡上八幡)の盆踊りを やっていた。だから何なのかはよく分からないが、川魚の佃煮や沢庵 みたいなものを展示即売してたように思う。 地下鉄に乗り、ラクト山科経由で帰宅。

夜はスポーツクラブ。軟弱トレーニングの黒ゴリラとモーレツあ太郎が 来ていた。私は乗馬マシーンンに乗ってロードランナー逆走男直伝の悦びの 踊りをおどり、山登りマシーンでも逆走を敢行した。私が帰る頃、例の休憩 ばかりしていつまでもマシンを占拠する「球形オジサン」がやってきたが、 被害に遭わないうちに退散。帰宅後、少しだけ数学。

2010年5月28日(金)
<<伝説の教授>>
研究日改め雑用日。午前中は「小爆発」関連業務の資料をチェック して、コメントをメールで出したりしてすごす。それにしてもカリキュラム 改訂というのは憂鬱な仕事だ。数年後に自分がどうなっているか見当も つかないのに、その頃の自分が何をやって何をやらないかを、おおまか ではあるけれど決めなくてはいけない。その時になって、これを教え たいと思っても駄目だし、こんな講座なんて馬鹿馬鹿しくてやってられる かと思っても駄目なのである。そして不良債権 化したカリキュラムが、何年も何年も重くのしかかるのだ。

昼前に自宅を出て、山科駅前で適当に昼食をすませて午後に出勤。 ファックスや学内便、メールなどをあちこちに送って雑用を片付け、 その後、締め切りが迫ってきた頼まれ仕事に取り組む。その作業がほぼ 完了したところで、17時より30分ほど学位審議委員会。

会議には、数理科学科を去って学内の行政職に転じて久しい某同僚も 委員として来ていた。「先生、お久しぶり。お元気そうで。」 一応学科に籍が残っていて一部の講義も担当してもらっているから、 私にとってはまだ「元同僚」ではない。しかし、彼の顔を知らない 新しい先生が既に5人ぐらい入ってきてて、うち一人は彼の顔を知ら ないままに他大学に転出していった。その意味で既に「伝説の教授」化 している。

会議終了後ただちに大学を発つ。JR南草津駅で18時過ぎの 電車に乗ったら、車内にビールとつまみの臭いが漂っていた。 いつもこの時間帯は、栗東や野洲方面の工場労働者たちが帰宅する 頃らしく、同じ職場の仲間とおぼしきオジサン達が4人掛の席を 陣取って、するめや柿ピーをつまみにビールのロング缶やワン カップの日本酒をちびちびやりながら、職場の仕事や給与ことや、 定年後の生活設計、家族や趣味のことなど、あれやこれやと 世間話をしている姿をよく見掛ける。

会社員時代に同じ事業所の工場で働いてた人たちや、大学受験 浪人時代、予備校に通う朝の電車の中でいつも一緒になった某電機 メーカーの工場労働者の人たち、そして南草津18時過ぎのJRの中で 見掛ける車内小宴会モードのオジサンたち。彼ら工場労働者の オジサンたちには、共通して独特の穏やかな雰囲気がある。

不況で残業がないためか定時で退社し、どこかに寄り道して派手 に遊ぶふうでもなく、電車の中でビールのロング缶1本で同僚とお喋 りしてまっすぐ帰り、自宅で家族と晩御飯食べて、プロ野球を見て、 風呂に入り、夜更かしもほどほどに明日の仕事に備えて早目に寝るのであろう。 そして休みの日には、子供と釣りに出かけるのかもしれない。ああ、 思えば私の人生は、大学を出て会社に入ったばかりの頃を除いて、 そういう絵に描いたような実直な生活とはほとんど無縁だったな。

私がこれまで職業生活を送ってきた世界は、いつでも「同僚とは いえ気の許せないライバル同士」みたいな空気が充満しており、皆どこ かしらとんがっている人たちばかりだった。その中で、「俺が、俺が」 って頑張りつづけるのよね。まあ、別にそういうのが嫌ってわけじゃ ないけどさ。

19時前に帰宅。夜は少し数学。

2010年5月27日(木)
<<530円の日傘>>
研究日。午前中は自宅で古い論文を眺める。午後は街に出て、河原町三条 丸亀製麺で遅めの昼食の後、寺町通上島珈琲「特等席」を陣取って夕方まで 少し古めの論文などを眺めたりしてすごす。

それからJEUGIA三条本店をさらっと偵察。先日、例の リヒテルの中国版CDに「国際巴赫年強力奉仕」と書かれていたと紹介したが、 今日見直したら「国際巴赫年強力奉献、巴赫平均律銅琴曲全集」と書かれていた。 ただし「際」と「銅」は中国の略字のような漢字から推測したので、 間違っているかもしれない。後半は「バッハ平均律クラヴィーア曲全集」だが、 前半の国際バッハ年に強力に云々の部分がやはりよくわからない。 これに続いて「西方音楽史上的典籍文献、銅琴音楽中的[旧約]」と書かれている が、こうなるとほとんど意味不明である。「西洋クラッシック音楽の古典、 鍵盤楽器音楽のバイブル」とでも書いてあるのかしら。

やっぱり中国語を知らないので、こういうのを見るとちょっと異様に感じる。 ちょうど高校の世界史の教科書で初めて女真文字や契丹文字を見た時の感触に ちかい。などと思いながらふと近く棚のCDに「チェロ組曲」と書いてあるの が見えて、こういうのを西洋人が見たら、私が契丹文字や「国際巴赫年強力奉献」 にぎょっとするのと同じ感触を持つのだろうなと思った。

ま、やはり今日も購入見送ろうということで、、ヒラリー・ハーンの最新 CDを試聴。しかしハーンのCDはほとんどオーケストラとの共演で、 今日のものも15秒の試聴時間はオーケストラの前奏だけで終わり、彼女の ヴァイオリンの音はほとんど聴けない。これも駄目だなというとこで、店を出る。

JEUGIAを出てからは、ここんところ宴会や会議などでオジサン にまみれることが多かったので、少しは綺麗なものを見て心を清めようと、 Anger河原町三条本店を少し念入りに偵察。この店のスタッフが真冬 のフィンランドだかスウェーデンだかに買い出し旅行に行った時のビデオ画像 が店内で上映されていたので、しばらく見入る。北欧の寒々とした街の風景 の中で、スタッフの人たちは何だか楽しそうに映っていた。

それから大丸ラクト山科店に移動し、4階催物会場で私鉄JR払い下げ 遺失物市で530円の折りたたみ式日傘を購入。昨年、デパートでブランド物の 高価な紳士もの折りたたみ日傘を買ったけど、昔の傘に比べて華奢ですぐ壊れるし 修理代もかさむので、業を煮やして返品した。ブランド物は丈夫で長持ちだと 勝手に信じてたけど、違うんだ、と。今度は日傘は消耗品だと考えて、ひと夏 で壊れて捨ててもいいような安いものを捜していたところだったのだ。

同じく大丸で安いワインと抹茶わらび餅を買って帰宅。夜は来週分の 「離散数学」の講義ノートつくり。シローの定理を使わずに位数の小さい 有限群の分類をやろうかと思ったが、無理だとわかった。ということで、 講義では将来彼らが学ぶであろうシローの定理の偉大さを予告するにとどめよう。

2010年5月26日(水)
<<サメに食われる>>
午前中は少し数学。昨日ダウンロードした論文を少し眺める。 大丸ラクト山科店で昼食用のパンを買って出勤しようと思ったが、 何故か今日はパン屋のレジに長蛇の列。パンはやめて、駅前で 適当に少し早目の昼食を済ませてから出勤。

研究室で午後の授業の準備をすこししてから、13時より14時半 まで卒研ゼミ。今日は3名中1人が教育実習で休み。これまで毎週 2,3行ぐらいしか進まなかったが、今日は10行程度にスピード アップ。鬼ゼミ化の兆しか? 学生たちが「僕たち、ゆとり教育世代 まっただ中です」と言ってたのが印象的だった。

教員たちの中には、ゆとり教育世代の学生に否定的な見方をする 人が多いが、私はそうでもない。むしろ、それ以前の学生たちにく らべて授業中の態度が良くなったので、講義しててもストレスが 少なくて助かっている。それがゆとり教育のおかげなのかどうかは 不明だが。

以前の学生は授業中私語ばかりしているか、寝てばかりいるかの どちらかだったが、ゆとり世代以降の学生は、授業中それほど私語は しないし、寝てる学生も少ない。彼らはあまりものを知らないのかも しれないが、ちゃんと教えると、なるほどという顔をする。それで 十分ではないかと思う。

14時40分から16時10分まで2回生の「離散数学」の講義。 最初教室を間違え、教卓のところで授業の準備をしていたら別の先生が 入ってきて「教室間違えてませんか?」と。慌てて正しいと思われる 教室に移動。一番前に座ってた学生に「離散数学、、、だよね?」と 確認。今日は素数位数の有限群が巡回群に限ることを証明し、さらに 4次対称群の位数1、2、3、4、24の部分群を決定してみせた。 次回は位数6、8、12の部分群を扱う予定。

研究室に戻って一息ついてから、16時半より学科会議、ひき つづき「小爆発」関連作業委員会。海賊の剣で一突きされるのを選 ぶか、それとも、海に突き落とされてサメに食われる方を選ぶかで、 厳しい議論の末、サメに食われる方を選ぶことになった。

会議の途中、某同僚が発した「高山先生、そんなに卒研に学生が来て 欲しいですか?」の言葉が印象的だった。別に沢山来て欲しいわけでも ないけれど、人気がないのは癪にさわるのである。それは学生の人気取り 競争という勝ち目のない闘いに明け暮れなければならなかった (旧)情報学科時代のトラウマというか、恐怖体験のフラッシュバック が原因。

(旧)情報学科では、学問の価値は学生の人気によって決まるという ようなことが本気で語られていて、学生に人気のある研究室を率いる先生 たちが、自分たちに都合がよい施策をどんどん決めて、人気低迷研究室を 追い詰めていた。そういう所に長く居たので、自分のゼミが学生に人気が ないのは自分の学問が不当に蔑まされているような気がして我慢ならない し、どこかで割を食わされて研究活動に支障が出るのではないかという、 安全保障政策上の不安に駆られるのである。

会議は20時頃に終わり、生協食堂で夕食の後大学を発ち、22時頃 に帰宅。何だか疲れたので、離散数学の来週分の講義準備は明日以降に 延期。

2010年5月25日(火)
<<爪の垢>>
高密度実装の火曜日。午前中は4回生「計算機数学」の講義。今日は グレブナー基底の定義の微妙な部分を見直し、グレブナー基底がイデアルの 生成元であることの証明をする。ふと教室を見回すに、机に突っ伏して 寝ている者、時々思い出したように板書を書き写す以外はずうっと爪 の垢をほじくっている学生、途中で入ってくる学生、途中で居なくな る学生。この4回生クラス特有の倦怠感が漂っている。

特に爪の垢学生は今週も先週もその前も、暇があるとずうっと爪の 垢をほじくっていて、既に私の定点観測対象に設定されている。そろ そろ爪の垢をほじくるのにも飽きて、鼻くそでもほじくりはじめる かも知れない。Ritsの教師になって以来、電車の中で鼻くそをほじくる 30代ぐらいの男は何例も目撃し、そのうちのいくつかは鼻くそを食べ ていたが、授業中に鼻くそをほじくっている学生はまだ目撃例が ない。その意味で、世紀の一瞬を見逃すまいと監視体制をより一層強化 しようと思う。

正味40分余りの昼休みは、研究室こそこそ昼食。13時から 14時半まで経済学部、経営学部の「C言語とUNIX入門」の演習。 今日は皆さん2番目の課題に黙々と取り組んでいて、時折TAの学生が 簡単な質問に応じる程度。私は学生たちを横目で監視しつつ、今日届 いた数学会誌を眺めたり、論文を検索したりしてすごす。

学会誌には、今春全国の大学の大学院を卒業した人の名前と学位論文 一覧が出ており、可換環論や代数幾何学方面はどうかなとみてみたけれど、 いつもながら(?)多いような少ないような、微妙な数だ。自分がそれば かりやっていると、どうしても「可換環論や代数幾何学なんて、あんな面白 いものに興味を示さない学生の気が知れない」と思いがち。 いきおい毎年この一覧表を見るに、想像より少ないことにちょっと衝撃を 受けてしまう。 京大のセミナーとか行くと、代数幾何学の人が溢れ返ってるのにね。

14時40分より16時10分まで2回生の「代数学序論I」の講義。 2次方程式のガロア群の構造と2次方程式の解の公式との関係、ガロアの 基本定理の概要。3次方程式の標準形など。

講義の後、今日は会議がないので、一休みがてら論文をいくつかダウン ロードしたり、「小爆発」関連でメールを出したりしてから帰宅。 夜は来週の分の「代数学序論I」の講義メモづくり。

2010年5月24日(月)
<<強力奉仕>>
研究日。しかし午前中は「小爆発」関連でいくつかメールのやりとり。先日 メールを出した「怖い話」に反応があって、何だか分かったような分から ないような事が書いてあったが、兎に角グズグズグズグズ言ってもしょうが ないことは分かったと書いてあったので、「なあんだ、もうやめてしまうのか。 つまんないの」と思 って深追いは控える。あとは昨日出した2,3通の「何やってんの?はよせ んかい!」メールに反応があって、ようやくワーキンググループらしい実質 的なやりとりが始まった。若い人たちに対するこういうちょっかいの出し方って、 ほんとにオジサンっぽいなと、しばし自己嫌悪に陥る。

それにしてもカリキュラム改訂って、自分が埋められる穴を自分で掘って いるようなもの。自分がやりやすいように手を加えれば良いようなものだが、 色々制約事項が多くて必ずしもそうはいかない。そもそも「全てのカリキュラム は不良債権化する」という高山の第2法則だか第3法則だかが あって、それによれば、私のように常にハンパな立場で どうにか命脈を保っている者にとっては、どう転んでも物事が画期的に やりやすくなることはない。全ては「海に突き落とされて鱶に食われ る方を選ぶか、海賊の太刀に一突きされる方を選ぶか」みたいな選択 の繰り返しなのである。

ちなみに高山の第1法則は確か「高山の演習の授業に出た数理科学家の 3回生は決して高山の卒研を希望しない」みたいなのだったと思うが、詳 しくは覚えていない。これらの諸法則はいずれ「高山が歩いた後に ペンペン草も生えず、閑古鳥の死屍累々」という高山の大法則に統一される ので、読者の皆さんは細かい法則をいちいち覚える必要はないであろう。

午後は街に出た。河原町三条丸亀製麺で、例によってぶっかけおろし饂飩 と天婦羅の昼食。JEUGIA三条本店でトイレだけしてから寺町通上島珈琲で夕方 まで数学。今日は坪庭をはさんだ奥の席に近い廊下沿いの席に座った。ここは 奥の席が静かならば、坪庭を望む孤立した感じの席で勉強には都合良い。 同じく隣の廊下沿いの席に居た若い女は、電子辞書を出して勉強していたから 静かだった。

奥の席は応接間のような感じになっていて、70代ぐらいの女二人連れが お喋りをしていた。最初はまあ普通に話していたのだが、途中で一方の女が誰 かの悪口を言いだして、あの女はこういう酷いやつだみたいなことを言いなが らだんだん興奮してきたらしく、しばらくヒステリックな大声を出してぎゃあ ぎゃあとうるさい。よっぽど「うるさい!黙れ!」としばき回してやろうかと 思った。私は「テレビの映りが悪い時は叩けばなおる」という感じが分かる最 後の世代なので、発作が起こった老女はしばき回せばな正気に戻るかしらと思 ってしまう。凶暴な思考。勿論それを実行することはないけれど。

彼女たち、いや、正確には彼女、はひとしきり騒いだ後、店を出ていった。 発作を起こした方はまだいくらか興奮しているようだった。 彼女たちと入れ替わりに若い女二人連れが入ってきて、結婚式の手はずを 相談しているようだった。声の小さい方が結婚するらしく、声の高い方が相談 相手のようで、ちょっとお姉さんぶった口調だった。新郎になる男の名前 を何度か口にしていたが、忘れてしまった。そんな名前、いちいち覚えてても しょうがないし。しかしお姉さん口調の女がその男の名前を「○○さん」 と呼ぶ時の感じが、「二人で幸せになってね」みたいなニュアンスが 籠っていて、ちょっと良かった。

トイレに立った時にふと奥の席を見たら、結婚式次第相談中の二人組 以外に、西洋人の若い男と日本の女の二人組もいた。男の方は、 フィールズ賞を受賞した直後のD.マンフォードみたいな顔してた。 マンフォードもあんな顔して京都に来てたときがあったのだろう。 そういえば先日の新任教員歓迎宴会の時に、野望と戦略の同僚に 「高山先生はなぜ外国から研究者を呼ばない んですか?」と絡まれたが、「馬鹿が来てくれっつっても誰も来るわけねえ じゃん!」と答えておいた。それも事実だが、高山の不確定性原理というのが あって、あれも駄目、これもうまく行かなかったって調子で研究テーマが どんどん変わっていくから、誰を呼べがよいか自分でもわからないという こともある。

上島珈琲を出て、またもJEUGIA三条本店を偵察。例の中国版のリヒテルの CDはまだ1つ残っていた。いっそのこと売り切れてしまえば諦めがつくのだ が。ジャケットに「国際巴赫年強力奉仕」などと書かれていたが、国際バッハ 年って何だろう?J.S.バッハは1685年生まれで1750年没だから、 生誕何年とか没後何年というのではなさそうだし。

地下鉄に乗ってラクト山科ですこし買い物をしてから帰宅。夜も少しだけ数学。

2010年5月23日(日)
<<春の嵐と怖い話>>
終日春の嵐。時折激しい風が吹き、叩きつけるような雨。夕方頃近所のスーパー に買い物に出た以外は、終日自宅でオチビサン、7つの間違い探しクイズ、時事 クロスワードパズル、そして先週は何だかんだとあまり落ち着いてできなかった 数学など。それ以外では「小爆発」関係でメールを2,3通出すも、これといった 反応はなく平穏に終わる。

そういえば先日の新任の先生の歓迎会では、日頃は会議でしか顔を合わさない 複雑系の皆さんと少しばかりフリートークをした。なるほど、そうやって面と 向かって大学の仕事に関した雑談をしてみると、そこで得られる非学術的情報量 は接触時間の短さに比べると膨大である。

まずは同僚某先生が「野望と戦略」路線に突き進む切欠となった悲しい過去が 判明した。どうやらあちこちで言いふらしているようで、私も同じことをずいぶん 前にも聞いたような気がするが、その時は別に気にもとめていなかった。 そういえば、かつて私も似たようなことを経験したが、私は「野望と戦略」には 走らず「馬鹿馬鹿しくなって全て放り投げる」という極めて私らしい方法を選んだ。

それから別の同僚某先生が、前回のカリキュラム改訂で廃止された演習科目の 復活を望まない理由がわかった。実は既にメールのやりとりで分かっていたことだ が、それを直接語る口調でその思いの程がより正確に理解できたような気がする。 私は数理科学科でまともに学生の教育にたずさわった経験に乏しいが、言われて みればそうかもしれないなと思った。

あと、ちょっと感じたのは、同僚たちは勉強ができない、あるは、勉強しない 学生たちに対して、何らかの不快感なり諦観なりいらだちなりを感じているよう だ。それは彼らが学生に対して強い関心を持っているということか。私は目の前の 学生が優秀だろうがなかろうが、何とも思わない。と、いうか、そもそもそういう 事には全然関心がない。やっぱり皆さんとはずいぶん違うな。

それ以外にも、色々な話を聞いて色々なことを知ったけど、人の話ばかりでは なく、出席者の顔ぶれを眺めて、ははあ、こいつは来たけどあいつは来ないのね、 なるほどそういうことか、みたいなこともあった。

これらの情報は、私の研究環境に関する今後の安全保障政策の中で 生かされていくことであろう。

昨夜遅く、「小爆発」関連でグズグズグズグズ言ってた若い先生に、私が 経験したちょっと怖い話のごく一部をメールで書いて送っておいたのだが、 その後何の反応もない。まあ、日曜日だから色々あってメールを読んでないだけ だろう。まさか「こんな怖い学科だったのか」と衝撃を受けてへこんでいる、 なんてことはないと思うけど。一応、その先生が同様の事件に巻き込まれる 心配はないと念を押しておいたけどね。

2010年5月22日(土)
<<今欲しけりゃ、今買え>>
ドイツ語寺子屋の日。昼頃に京大ルネに到着し昼食の後、関西日仏学館 でプリントの予習。昨日一応全部目を通したのだけど、分量が多く難易度 もいつになく高かったため、授業が始まる直前までかかった。

15時過ぎから寺子屋。今日は伏見の指物師は欠席、某大学4回生の学生 さんと二人。しかしそのうち新しい見学者がやってきて合流。 ケルンに1年在学留学していた某大学4回生の学生さん。 その大学なら私がゲーテで教わったF先生が教えて いたはずだが、知ってるかと聞くと、自分はその先生にドイツ語を習っていた という。それにしてもケルンとは、懐かしいなあ。1日だけ観光に出かけて 歩き回ってただけだけど、その時のスケッチが私の本の表紙に使われているし。

授業が終わって、先生が「じゃあ、来週から来てくれますか」と聞く と、この講座ではちょっとレベルが高いような気がするので、中級クラスも 見学して、どちらかにすると答えていた。え?ケルンに1年住んでて、 一応先生ともドイツ語でちゃんとやりとりしてて、それで 「このクラスは少し難しい」なんて、変じゃん!? でも、私が得意とする「ここは 『上級クラス』じゃなくて、『上級を目指すクラス』だ」という決め台詞を ぶちかます間もなく、そういうことになってしまった。

帰りは3人で途中まで一緒に帰り、F先生の思い出話や、学生の一人がやって いるチェロの話をした。何で私は、Ritsの学生さんにはいつも仏頂面なのに、 他所の大学の学生さんにはこんなに気さくなオジサンになれるんでしょうね? ま、答は、単なる若い人とオジサンという関係でしかなくて、余計な気づかいが 要らないから。さあて、来週その学生は私のクラスに来るかしら。

帰りはJEUGIA三条本店と久々にAnger河原町三条本店を少し偵察。 JEUGIAではまた中国直輸入版のリヒテルのCDが流れていたが、中国直輸入版で ないCDも見つけて少し試聴。どうやらリヒテルはある時期、平均律クラヴィーア 曲集を何度も録音しているらしい。今日試聴したのも良かったけど、 やっぱり中国板の方がぐっとくるが、やはりパス。 Angerではフィンランドのパンで、煎餅かゴーフルみたいなのが売っていて、 試しに買おうかなあと思ったが、ドイツに行ったらスーパーでもっと安く 帰るかしら?みたいな妙なことを思いついて、これまたパス。 まったく、今欲しけりゃあ、今買え!金持ってあの世には行けんぞ。

夜は久々にスポーツクラブ。2週間サボっていたけど、出張したり講義 したり街を歩いたりと、色々動き回っているせいか、それほど疲れなかった。 しかし久しぶりなので、山登りマシーンの逆走プレイはやったけど、 乗馬マシーン上での悦びの踊りプレイは控えた。ジムは割合すいていて、 モーレツあ太郎が来ていたぐらいで、めぼしいスターは来てなかった。

深夜は、妙なことをグズグズグズグズ言ってる若い先生の話し相手。 長い長いメールを書く。メンドクチャイなあと思うけど、仕事だから ちゃんとやりますよ、はい。学科の安定は私の研究環境の安定という、 安全保障政策の一環でもあるし。

2010年5月21日(金)
<<雲の上を漂う>>
昨夜は久しぶりに良く飲んだので、アルコールのせいか眠りも浅く、朝の 目覚めも良いような悪いようなで、何となく雲の上を漂っているような気 分である。まずは博士論文審査の副査関連の用事を少し。それから、 PCの期限付きセキュリティーソフトのアンインストール方法 の調査など。そろそろNTTの光フレッツに付属の無料ソフトに乗り換える作業 をやらないといけないんだけど、面倒臭いなあ。

ひきつづき「小爆発」関連業務。私は数理科学科では居ても居なくても 良いような一番どうでも良い立場の人間で、大学院の講義担当から も撤退を余議なくされるぐらいなのだが、どういうわけか、節目節目で 学科内の変な検討委員会に放りこまれて面倒に巻き込まれる。面倒臭い 話だから、ふらふらしているアイツに押し付けてやろうということだろうか。

数年前も「俺サマには未来なんてもんはネエんだよう!なのに何で 学科の未来なんて考えなきゃならんのだよう!」との抵抗も空しく、 数理科学科将来構想委員会みたいなものに引きずり込まれ、訳のわから ないことをグダグダグダグダ言ってゴネている若い先生の話し相手をさ せられた。

黙ってるばかりで何考えてるかわかんない奴よりグダグダ言う 奴の方が分かりやすくて良いということはある。グダグダ言う奴 には、それは違うんでねーの?とか、あー、そういうことだったのか、 とか話ができるから良いけど、黙ってる奴は厄介だ。たまに何か 言ったかと思うと、とんでもない頓珍漢なことを言い出したりする。 それはそれでいいのだけど、それって変なんとちゃう?と突っ込む と、また黙りこくってしまう。この野郎、妙なところで黙秘権を 乱用しよって。こやつの頭蓋骨めくって糠味噌みたいに脳味噌掻き回 して、血のめぐりでも良くしてやろうかしら、と。

それに比べると、何やかやグダグダ言う奴の方が反応があって 面白いので、まあ、面倒臭いけど仕事の一環だししょうがないかと、 つい相手してしまう。この単純な性格が災いして、今回の「小爆発」検討 委員会でも、何やかやグダグダ言ってる若い先生に「何を言ってるのかよく わからないんですけどー」みたいなメールを書いて、 鬱陶しくカラんでいるうちに午前中が終わってしまった。

午後は街に出た。河原町三条の丸亀製麺で、ぶっかけ冷やしおろし 饂飩と天婦羅のかなり遅めの昼食。ようやく昨夜の酒も抜けて、雲の上 から地上に降り立った気分になってきたので、JEUGIA三条本店を少し偵察。 今日も、あの中国直輸入版CDのリヒテルの平均律クラヴィーア曲集が 掛かっていた。何度聞いてもいいなあ。思わず引き込まれてしまいそうだ。

しかし邪念を振り払うかのようにJEUGIAは早々に引き揚げ、寺町通 り上島珈琲へ。今日はドイツ語の予習がテンコ盛り状態なので、数学は 諦めてドイツ語の勉強。先日、例の軍国の母たちのキンキン声で酷い目 に会ったのと同じ席で、今日は軍国の母たちの代わりに二十代ぐらいの 若い女二人組が、恋、結婚、女同志の友情、仕事、趣味などについて、 やはりよく通る声で延々と話していた。会議の議事を聞き流しながら 講義の準備をする要領で、彼女達のお喋りを聞き流しながらドイツ語 の辞書引き。「スタバはいかにも『ほら、ここはお洒落でしょ?』って 感じが嫌い。上島珈琲は日本の会社だし、日本人はやっぱり日本のもの が落ち着くわ」と。

夕方、上島珈琲を出てまっすぐ帰宅。夜もまた、「小爆発」関連の 綿々としたメールを書いて出し、ドイツ語の某大な課題を片付ける。

2010年5月20日(木)
<<解析の伝統>>
午前中は山科区内で野暮用。それからドイツ語寺子屋に行き次回のプリントを 受け取る。寺子屋は奥さんがレストランをやっているので、ついでにそこで 昼食も済ませる。ごちそうさまでした。それから満員バスに乗って京都駅 に移動し、徳島大学集中講義のための高速バスの切符を購入してから、 京阪ホテルのラウンジでしばし仕事。学位論文の副査を頼まれたので、 ダウンロードした学位論文を精査する。その後、アバンディー・ブックセンター を少し偵察。ハローキティー看護本というのがあって、キティーと一緒に 内科とか整形外科といった分野を学ぶ要点整理本が出ていて、「いいなあ」 としばし見入る。

その後、JRに乗って大学に出勤。16時半より新任の先生の自己紹介 セミナー。偏微分方程式の話で大変面白く聞いていたのだが、後で考えると 何も分かっていない。よく考えてみれば、散乱行列について何も言わずに 散乱理論の講義をしていて、うまいこと騙されたなという感じ。そういえば 学生時代、偏微分方程式の某世界的大家の学部の講義は「その時はすごくわかった 気分になって、気持ちいいのだけど、後で真面目にノートを読み返すとさっぱり わからない」ことで学生の間で評判だった。こういうのは解析の古き良き伝統 なのかしらと感心した。

その後草津駅前に移動して、新任の先生の歓迎会。久しぶりに数理科学科の 人たちとよく飲んだ。情報通の先生に、この日誌がRitsに限らず、全国の大学 事務職員のRits情報獲得源として読まれていることを知らされて、ちょっと 驚いた。脳の歪んだ大学教師の日誌なんていちいち真に受けてたらキリがないよ。 (よおし、ガセネタをばんばん流して攪乱してやろう。ふっふっふ)

私の日誌を読んでると言う准教授には「そんな下らないもの読んでるから、 オメエは教授になれないんだよ。ばーか」と言い、 大学院生やポスドククラスの人には「俺の日誌なんか読んでる暇があったら、 論文書けっつーの。崩れになりてぇのかよ、ばーか」と言うことにしている。 誰とは言わないが、かつて「夢見る数学者フリーク」を自称していた 某若手研究者が、私の日誌の下らなさに気づいて読むのをやめ、 数学研究に専念するようになった結果、現在大数学者となってあちこちの賞を 総ナメしていることは、私の秘かな自慢である (但し、日誌講読中止と数学者としての成功との因果関係は 科学的に証明されたわけではない)。

さすがに教授クラスで私の日誌を読んでる馬鹿はいないみたいだが、 居たら唯ひとこと「ばーか」と言ってやろうと思う。 学部学生や一般社会人が「ははは、馬鹿な大学教師がくだらないこと書いてやがる」 と思って読んでるぶんには、問題はないと思うけどね。

「読めば頭が良くなる」ではなく、「読むのをやめれば 頭が良くなる」”夢見る数学者”を今後ともヨロシク!

2010年5月19日(水)
<<冷戦思考>>
大丸ラクト山科店で昼食用のパンを買って、昼過ぎに出勤。 研究室こそこそ昼食ののち、13時より14時30分まで卒研ゼミ。 去年の卒研はマンフォードの「複素射影代数多様体論I」が毎週2,3 ページずつ進むという鬼のようなゼミだったが、今年はうってかわって フルトンの「代数曲線論」が毎週2,3行ずつ進む、極めてまったりとした ゼミである。

まったりとした90分でくつろいだ後は、14時40分より 「離散数学」の講義。エレベータを待っていると、同じくエレベータ を待っていた学生が挨拶をしてきたような気がする。はてな。私 は学生さんに挨拶されるような人間ではないけど、通りかかった別の人に 挨拶したのかしら?と曖昧な態度で誤魔化す。するとエレベータに 乗ってから、またその学生が「こんにちは」と挨拶してきた。エレベータに は私と彼しかいないのだから、知らん顔するわけにもいくまい。私も 「こんにちは」と挨拶し、一息おいて「ところで、どちら様でしたっけ?」 と聞く。「先生の離散数学の講義を受講している者です」と。 「ああ、そうでしたか。それは失礼しました。」

学生さんに挨拶されるなんて、俺、何か悪い事でもしたのかいな? と首を傾げながら、「離散数学」の講義。今日は巡回置換が互換の積に 分解することを示し、具体例の計算をして見せ、次に4次対称群の24個 の要素をすべて互換の積と巡回置換の形で書きあげ、部分群決定問題 を考えるための方針を示して終わる。

研究室に戻って一息ついた後、16時30分より学科会議。 「離散数学」の講義メモは先週作ったものがまだ使えるので、 今日の内職は導来圏の教科書を眺めて来週月曜日の東大セミナー を聞きにいくかどうかの検討。導来圏と双有理同値についての 講演で、ちょっと興味があるけど、私が聞いてわかるものかどうか。

会議ではカリキュラム改訂の議題も出て、長年「伝説の講義」化が続 いていた私の大学院の講座の廃止がめでたく認められた。卒研でも講義で も同じことだが、受講希望者が居ない講座を無理やり維持していると、気 分がどんどん荒んでゆくから、さっさと廃止するのが一番である。あとは、 来年度回ってくる、現行カリキュラムの大学院の講義を他の人に 押し付けることができれば、晴れて自由の身になれる。

(旧)情報学科時代も、私の研究室には毎年志望者がゼロで、「これは 構造的な問題だから今後志望者が出る可能性はない。学部の授業を余分に 担当するから、卒研担当は勘弁してくれ」と言っても、色々形式的な理由 で認められなかった。そういう工学部特有の形式主義がさまざまな不幸を 生み出したのだが、数理科学科はその点が柔軟なので、上記大学院 講座の廃止もあっさり受け入れられたのだと思う。

会議は19時半頃に終わり、生協で夕食。その後、プレプリント サーバーを渉猟して資料を見つけ、結局東大セミナーは聞いても分か らんだろうと判断し、パスすることに。帰ろうと思ってエレベーター に乗ったら、また数理科学科の学生と思われる人が挨拶をしてきて、 先生の「C言語とUNIX演習」の授業を取りたいと思ったが、 他学部の授業なので取れなかったと話かけてきた。何であの講座 を受講したがるのか、不思議といえば不思議だ。 この話と、「先生の『留学生数学』を受講したいと思ったが、 留学生ではないので 取れなかった」とか「先生の徳島大学工学部での集中講義を受講したいと 思ったが、徳島大学の学生ではないので取れなかった」と言われた場合 との違いは何か?

それにしても、と、また首を傾げる。学生さんに話かけられる なんて、俺、よっぽど何か悪いことでもしたかいな?と。 私の場合、普通にしている限り学生さんには毛嫌いされ、 卒研配属では希望者がおらず研究室にはぺんぺん草が生い茂り、 廊下で出会う顔見知りの学生たちは「何だこの野郎」みたいな顔で見てきて、 大学院の講義は「伝説」化し教室では閑古鳥が鳴くのである。 このように私の頭の中は冷戦思考のままなので、今日のように 冷戦的世界観と整合性がとれない事態が起こると、背後で一体何が 起こっているのか?とちょっと不安になる。 ああ、やはり世界は複雑系だ。研究に戻ろう、と。

22時過ぎに帰宅。今夜は数学はなし。

2010年5月18日(火)
<<代理出席>>
高密度実装の一日。出勤途中の山科の路上で、同僚の若い先生を見掛けた。 よくこのあたりで見掛けるから、近くに住んでるのだろう。もう一人若い同僚 の先生がこのあたりに住んでいるが、路上で彼の奥さんと出会ったのに 先に気づかれて悔しい思いをしたことがある。人の顔を忘れるなんて。。。 俺もヤキが回ったものよ、と。まあ、他人の奥さんなんて、いちいち憶えて ませんけどね。

午前中は4回生の「計算機数学」。講義を始めようとしたら学生達が 次々と教卓に突進してくるので何事かと思ったら、教育実習のための公欠届。 10枚近く集まっただろうか。私は今まで4回生の講座は後期にしか担当した ことがない。(旧)情報学科の経験から前期だと就職活動のためほとんど授業 が成り立たないと思っていたからだが、教育実習とは、これまたいかにも 数理科学科らしい。昔の田舎の小学校が田植えの季節に臨時休校になったみたい な話だな。え?一体いつの時代の話かって?私の母親の子供の頃よ。 今日は一般化された割り算定理の証明とグレブナー基底の定義。

正味40分ほどの昼休み。研究室こそこそ昼食の後、13時から14時半まで 経済学部、経営学部2回生のC言語とUNIX演習。今日で5名の受講者全員が課題1 を終了してレポートを出し、課題2に進んだ。この講座はまったりとした雰囲気の 中で確実に力がつく、大変お買い得講座だと思うんだけど。

引き続き14時40分より16時10分まで2回生の「代数学序論I」。 今日はガロア群の定義と意味、X^3 -2=0のガロア群の計算と解集合への作用、 2次方程式のガロア群の計算。先日の学生は「すぐわかる代数」を注文し、 今日届く予定だと言っていた。ま、しっかり勉強してくれたまえ。

一息つく間もなく16時30分から教授会か、と思ったら教職員セクハラ &パワハラ対策講習が始まり、1時間10分程度続く。理事会メンバーも同様 の講習を受けたそうである。かつては(元)理事長の恫喝まがいのパワハラが 常態化していて、大学全体に嫌な雰囲気が漂っていたこともあったが、それを 思うと隔世の感がある。

講習に引き続き教授会。例によって議事を聞き流して来週の講義の準備をと 思ったが、学科長が隣に座って用事を頼んできたので、それを先に片付ける。 教授会は19時前に終了。同時に講義の準備も首尾よく終わっていた。同じフロア の別の会議室に移動して、19時から某委員会。高校の先生を何人か招いて の交流会のような催しだが、委員長と事務担当者ばかりが延々と喋りまくっ ていて、私や他の学科代表は一体何のために呼び出されたのか皆目見当 つかない状態。来客の手前、露骨に内職するわけにもいかないし。 会議は20時10分頃に終了。次にこの会議に呼び出されても、私は出席しない。 五月蠅く言ってきたら、「私のキティちゃん人形を代理で 出席させます。それで十分ですね!」と言ってやろう。

それからバスで南草津駅へ。何だか粉もんが食べたくなり、駅前の お好み焼き屋で豚玉モダン焼と生麦酒中ジョッキの夕食。近くの席で、 大学生ぐらいの若い女ふたりが、お好み焼きを食べ終わってからも楽 しそうにお喋りしていた以外は、めぼしい客もおらず。22時頃帰宅。

2010年5月17日(月)
<<来客>>
雑用日。大丸ラクト山科店で昼食用のパンを買って、昼頃に出勤。 研究室こそこそ昼食のあと、15時頃まで頼まれ仕事を中心とした雑用。 さてと、来週月曜日の東京日帰り出張の申請書でも書こうかと思ったが、 翌日が朝から高密度実装の授業日だし、面白そうな講演だけど聞いても チンプンカンプンの可能性が大きそうだし、どうしようかなあと躊躇して 判断先送り。それからしばらく研究室のソファーに寝っ転がって数学。

16時より予定していた来客。30代前半の高校の数学の先生だが、 物腰柔らかく、彼と同じ世代の数学者に比べて殺気立ってもいなければ、 数学者特有の屈折した雰囲気も漂っていない。私の生活圏には居ないタ イプだなと思って聞いてみたら、機械工学科出身だという。そういえば 私の高校生時代、電子工学科出身の数学の先生や、理学部の大学院で 有機化学の研究をしていたという数学の先生がいたな。 中学1年生の頃の数学の先生は当時既に70代だったが、 若い頃は東京帝国大学で化学を学んだそうだ。 見るからに半分あの世に首を突っ込んでいるような感じのお爺ちゃん だったが、それがかえって授業中のただならぬ緊張感を醸し出していた。 高校時代の英語の先生は、エリート商社マンを目指して某有名大学経済学部 に進んだものの「色々あって」教師になったと言っていたが、いかにも エリート商社マンが英語を教えているという感じだった。 さまざまなバックグラウンドをもった大人たちに囲まれていた時代から、 ずいぶん遠いところに来てしまったものだと思う。

今日も折にふれて「小爆発の憂鬱」に思いがよぎる。なぜこんな話 でムカムカするのかというと、たぶん私が負けず嫌いだからだと思う。 学者は学問の世界で勝負していればよいのであって、学問研究とは直接 関係のない大学内部のあれやこれやで同僚にひけをとりたくない、みた いな妙な負けん気を起こすのはあまりにも愚かしいし、学生たちに然る べき分野の専門家と認知されないことが悔しいなどと思うことも、また 馬鹿げている。負けず嫌いは時に便利だが、うまく制御しないと隘路に 陥り、腹が立って研究ができなくなる。つまらないことが気になって しまうから、やはりこれまで通り大学からは距離をおいてやっていくのが 良いと思う。

面談は16時40分頃終にわり、すぐに帰宅。夜は少し数学。

2010年5月16日(日)
<<小爆発の憂鬱>>
朝はゆっくり起きて、朝食、朝日新聞「オチビサン」、京都新聞「7つの 間違い探し」「時事クロスワードパズル」。その後、「小爆発」関連業務 をすこしやって、街に出る。四条烏丸大丸京都店、その他の店で買い物な どをして夕方帰宅。エアコンの機種選定の検討をすこしして、住宅地図を 持って自転車で近所に繰り出し、挙動不審者と思われぬよう注意しながら 偵察飛行(この行動自体が十分挙動不審か)。何だか落ち着かない一日だっ たが、夜はほんの少しだけ数学。

「小爆発」関連問題、つまりカリキュラム改訂は数年先に自分が どういう形で大学教育に関わっていくかという、普段あまり考え ないようにしている問題を避けて通れないところが悩ましい。

Ritsの院生は確率論と数論の学生ばかりなので、私が大学院で講義 しても受講生はゼロ。この傾向は今後も変わりそうもないし、こんな 無意味なことをやっててもしょうがないから、私はもう大学院の講義は しない積りである。来年度はまだ旧カリの大学院の講義があるが、誰か に押し付けてやろうかと思っている。

4回生の「計算機数学」も同様の問題があって、私がこんな科目 教えてても無意味だと思うに至り、これを担当したがっていた同僚 に譲った。今年はたまたまその先生が多忙なので「代講」しているが。

昨秋の卒研配属の時は、私の研究室で情報処理関係や初等整数論 を勉強したいと希望する学生ばかりで、ちょっと閉口した。私もある 種器用な人間なので、卒研ならどんなテーマだって相手してやれない わけでもないし、それ以前まで卒研ゼミの希望者がほとんどゼロで 推移してたから、折角希望してくれた学生だじ受け入れようかとも 思った。しかしやはり自分の専門を無視されたような感じであまり いい気分ではない。それに、他の同僚たちはこの手の気苦労を全く しなくてよい立場であることを思うと、ちょっと、いや、かなり癪 だ。結局、専門の先生を紹介してそちらに追いやった。

もっともこれは学生が悪いというよりも、色々な歴史的経緯が あって、数理科学科の教員の中で私だけが自分の専門分野を講義を することが許されていなかったからである。卒研ゼミの配属が終 わった後の4回生や大学院生相手に講義しても時既に遅しだし。 大学院の講義や4回生の講義から撤退するのも、要するにそういう ことである。

では今度のカリキュラム改訂で、3回生前期というゴールデン ・セメスターに1コマをかち取って、卒研配属前の学生に自分の専門 を教えることができる科目を作ればよいではないかということになる。 しかし問題は2つある。そのような科目を作った場合、何かの理由 で自分が担当できなくなったときに、代わりに担当してくれる先生は いるか?それが居ないのである。もうひとつは、例えば、折角卒研生 集めの下心ギラギラ科目を作っても、その講座の受講生が誰も私の卒 研を希望しなかったら、その科目はほとんど不良債権化する。そんな 事が起こりうるのかというと答はイエスで、3回生前期の演習科目 を担当したときなど過去に類似の例が3〜4例ある。 私は学生には嫌われるタイプだから、あまり露出するのはかえって 逆効果なのだ。

そういうことをつらつら考えていると、(旧)情報学科時代 のことを色々思い出してしまいムカムカと腹が立ってくるし、 こんなことを考えること自体がだんだん馬鹿馬鹿しく思えてくる。 いったいぜんたい、こんなことが私の研究活動に何の関係があるのか? 勿論ゼロである。 単に学生相手に俺は○○という分野の専門家だぜという顔をして、 学生達にも一応そのように扱ってもらいたいという、それだけの話 である。勿論そうなればそれに越したことはない。学生たちとの麗 しい学問的交流、充実した研究生活。絵に描いたような理想の大学 教師生活ではないか。

しかしそれが現実問題としては極めて難しく、状況を変えるために 要求される努力の量と、それによって期待できる成果を比較するに、 どう考えても全く割が合わないとなれば、下らないプライドのために 折角恵まれた立場で続けていられる研究活動を犠牲にするのは愚か だし、贅沢を言いだせばキリがない。

自分はすでに十分恵まれている。研究環境の面では、少なく見積 もっても実力の3割増以上は恵まれている。無意味な科目は自らの手 で廃止し、自分のための専門科目は作らず、専門性が低く誰が担当し てもよい低回生科目や他学部のサービス講義で食いつなぎながら、 研究に専念する。幸いなことに、それをやろうと思えばできなく もない立場だ。いったいこれ以上何を望むといのだ?

という風に理性的に考えると、方針は既に決まったようなものなのだが、 やっぱり何か癪にさわるし、どうもすっきりしない。何なんでしょうね、 このモヤモヤは。