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た
め
の
邪
魔
な
広
告
よ け ス ペ ー ス で す。
2011年3月15日(火)
<<貴方は同朋?>>
N24の報道もかなり落ち着いてきて、昨日の深夜あたりから日本の地震以外の
リビアのカタフィーがどうのといった報道もするようになってきた。
福島原発関連も、かなり状況が明らかになってきたこともあって、
2日以上前のような、一体どうなってるんだ?チェルノブイリ級の大惨事は
起こるのか?こんな状況なのに日本でパニックが起こってないのは何故だ?
といったいらだった調子ではなく、日本での報道内容やトーンとかなり似てきた。
ただし、深刻な事態という認識は相変わらず強く、今より状況が悪くなるとどうな
るのか?といった可能性をつねに意識している点では一貫しているように思う。
ただし、ここで「日本の報道」というのはインターネットで見ている
NHKテレビとYahoo Japanだけだけど。
日本の報道に比べると、N24やZDFやDas Ersteのニュースは、すぐに どこそこ大学の教授とか解説委員みたいな人が出てきて、原子炉の仕組みや 日本側発表の意味、それぞれの放射性物質 が人体のどの部位に悪影響を与えるかといったことを、多くの場合 コンピュータグラフィックスなどの図解で詳しく説明している点が 際立っている。これが世界で最も理系離れが進んでいる日本と、 そうでもないドイツの違いなのかしら。
被災現場の様子の画像もよく流れているが、こちらのテレビに出る映像の ほとんどはNHKやAnnといった日本のテレビ放送の画像で、解説は ドイツ語だが表示が日本語だから分かりやすい。ただし日本語の表示とは 直接関係ないことを解説していることもある。日本のテレビ放送の画像を使うのは、 たぶん特派員が各社1人か2人だから、独自取材に限界があるからだろうと思う。
それから、ドイツから派遣された救援隊はテー・ハー・ヴェー (THW: Technisches Hilfswerk)と言って瓦礫の下敷きになった人を見つけて救助 する専門技術者だそうだ。昨日だか一昨日だかに日本に到着し、隊長みたいな 兄ちゃんが「これから現地の状況を見てどこで何ができるか判断する」 みたいなことを言ってた(ように思えた)が、今日「現地配備完了 Einsatz beendet」とかいうニュースがちらっと流れていた。
ドイツの原発政策見直しの議論はかなり活発になっているようで、 今日はメルケル首相と、議員か何か各州の代表のような人たちが集まって記者会見をし、何か言っていた。何を言っていたのかはドイツ語だからよくわからない。 ただ、ドイツだけでどうのこうのしても、たとえば隣のフランスなどは発電量の 78%(?)を原発が占めているし、EU全体で意思統一をしていかな いとどうにもならないというようなことを言っていた(ように思えた)。 そのフランスでも一部で原発反対デモが行われたらしいし、 その一方で街の人のインタビューでは「フランスと日本では状況が違うから、原発 は維持すべきだ」と言っているオジサンがいた。、
こちらの人達の関心の度合いはどうかというと、メンザで食事をしていると、 あちこちで"Kernschmelze(核溶融)"とか"Tsunami(津波)"という話声がちらほら 聞こえてくるし、学生達の間にも一定程度情報は広まっているようである。
それにしても、福島原発で事態の収拾にあたっている作業員の人たちは、 怖いだろうなと思う。厚生労働省が原発作業員の被爆上限値を臨時に引きあげて 「国際基準には収まっているし、こういう時だからやむおえない」としている そうだ。これは要するに非常時だから現場の作業員の人に多少命を削って もらうのもやむおえないと言っているようなもの。これは大変なことだと 思う。こんな命を張った大仕事は、それに強い誇りを持っていなければで きるもんじゃない。何とか成功してほしいものだと思う。
私がまだ某電機メーカーの研究所で働いていた頃、隣の部のイケメン部長 が極限作業ロボットの研究計画書を作っていた。災害現場や原発、深海など、 人間が近寄れない所で作業するロボットのことだが、その後私は国立研究所に 出向したり、そこから戻ってきてからあちこちの部署をたらい回しにされた揚句、 どさくさに紛れてRitsに転出したので、その研究計画がどうなったかは知らない。 もう30年近い昔の話である。福島原発の事故でも、ロボットが爆発現場などの 危険な場所を巡回して詳しい状況を調べたり、場合によっては修復作業をしている のかと思ったけど、報道を聞くかぎりはそんなふうにはなってないようだ。
さて、今日の午前中は少し数学をやって、昼食は大学のメンザ。食後の コーヒーはメンザ・カフェの薄いコーヒーで済ませた。研究室に行って誰か に会ってしまい、「お前の家族は大丈夫か?」みたいなことを言われて、それに いちいち対応して現在2名が登録されている「友人リスト」を更新するのも 気が進まないし、さらには、こちらの方がありそうな話だと勝手に思い込んで いるのだが、簡単な会釈だけでシカトされて、「この野郎、 一言ぐらい安否を気遣うことを 言うのが礼儀ってもんだろうが!」と暗い気分になるのが嫌だったし。 まあ、この辺の複雑な心境の背景について色々書くと「協定違反」になるので、 書かないけどね。
メンザを出て、そのまま旧市街に繰り出し、昨日延期した風景スケッチ2枚の 色塗りと、マリエン教会の天井スケッチの仕上げを行う。Ledehofというルネサンス期 の建築様式を残した建物などを描いた絵に色を塗っていると、高校生ぐらいの男 が自転車に乗ってすうっと近寄って覗きこんできた。この野郎、黙って近寄るん じゃなくって、「ちょっと見せてくれ」とか何とか言えよ。
彼はしばらく私の作業を眺めてから、「これは一人で描いたのか?」 と聞いてきた。何やねん、それは? この俺サマがGaleria Kaufhofで「オスナブリュックぬり絵 セット」を買ってきて(註:実際にそんなセットが存在するかどうかは 確認してません)、色鉛筆でお絵描き中だとでも思ってるのか?
それで、「これはまず鉛筆でデッサンをして、それで1つの独立した 作品としてとっておき、そのコピーをとってそれに色を塗って2つ目の作品にするんだ」と、「1つのネタで論文水増し」のからくりを教えてやったら、 「それは(商売じゃなくて)個人的(persoenlich)にやってるのか?」 と聞いてくるから、「そうだ」と答えてておいた。
そしたら、ふーんとか言ってさらに数秒眺めてたかと思うと、 すっと行ってしまった。こら、こら!「綺麗だ Schoene!」とか何とか、お世辞でも一言褒めてから行かんかい!まったく 礼儀知らずの けったいなボウズやなあ。まあ、いいけどね。
それからしばらく作業を続けていると、今度は日本人みたいな顔した、私と 同世代かすこし若めの女が通りがかったかと思うと、ふっと戻ってきて ハングル語で何か言ってきた。「カンコク」という単語が聞こえたから、 「貴方は韓国の人ですか?」と聞いてきたのかもしれない。まあ、何にしても ハングル語でいきなり話掛けるのだから、そうなんでしょう。
で、「いやいや!」と答えると、少しばつの悪そうな顔をして去っていった。 ま、悪い気はしないな。前にも関西日仏学館で似たようなことがあり、 「日本人と韓国人は雰囲気の違いでわかる。貴方は完全に韓国人の雰囲気を持って ます」とか言われ、ちょっと舞い上がった。その前はエッセンで電車に乗り間違えて、わけのわからない駅に降りてバス停でバスの時刻表を見ていたら、 コリアンの兄ちゃんにいきなりハングル語でべれべらと話し 掛けられたこともあった。この時も、「へへっ」と思ったな。
しかしベルリンとエディンバラの研究集会で同じ韓国人数学者と一緒だったけど、 彼は決して私には声を掛けてこなかった。後でわかったことだが、彼は韓国を 代表する研究所の所員だが、現在は私が「お前はアホだから来るな」と蹴られた マックスプランク 研究所の客員研究員である。私が声を掛けられなかったのは、私がコリアンに 見えなかったからではなく、私がコリアンのアホな数学者に見えたからであり、 「アホは相手にしない」という万国共通の数学者の本能に従っただけなのだろう。
と、ちょっと苦しい自虐ネタをぶちかまして、今日の日誌の締めくくりとしよう。
2011年3月14日(月)
<<友人たち>>
今日もN24は東北の地震の特番。しかし被災者の現状、被災地の救出作業の様子、新たに入手した津波の現場の映像、計画停電で通勤ラッシュが激化した東京の様子など、多角的な報道になってきて、原発一辺倒みたいな傾向は少し和らいだようだ。
原発については、現状ではかろうじてうまく制御していること、しかしまだ予断は 許されない状態であるといった論調で、昨日に比べてすこし落ち付いた感じがしない でもない。夕方には在独日本領事だか大使だかが出演していて、現状ではチェルノブイリの再来が危ぶまれる状態ではないこと、そしてキャスターが「(ドイツでは)日本 政府の情報隠蔽体質にいらだちが高まっているが、それについてはどうか」というような質問に対し、別に隠蔽しているわけではないし、情報は正確なことが大事なので、 よく確認されたことを発表するようにしている、というようなことを答えていた(ように思う)。
また、原発のLaufzeitverlaengerungとか言ってたが、古い原発の使用期限を 大幅に延長した措置について、ドイツ政府が見直しを検討し始めているとか、 見直しを検討せよとの声が議会で高まっているとかで、いよいよドイツ国内問題 に火がついたかなという感じ。しかしドイツが原発を廃止しても、EUの周辺国は フランスをはじめとして沢山原発があるそうだ。
というようなことだけど、まあ、何せドイツ語が不自由なので、聞き違いの 可能性はあるけど。
本日掃除の日で、8時起床、そして9時出発と思ってたのだが、ちょうど福島 原発の再爆発のテレビニュースに釘付けになっている間に9時を過ぎる。すると 掃除の係の人がやってきた。開口一番、「貴方の家族や親戚は無事か?」と。 おお!二人目の友人だな。で、見舞いのお礼を言ったり、片言のドイツ語で すこし地震関連の雑談をしてから、「あとはよろしく」と部屋を出て、大学へ。
大学の研究室で日本に送る資料を封筒に詰めたりした後、大学近くのコピー屋 さんで風景スケッチ2枚をコピー。しかし天気がいまひとつふるわないので、 スケッチの色塗りは中止し、マリエン教会で天井のスケッチ。午前中の開館時間 10時半に到着してすぐに作業を開始し、12時の閉館時間になっても完成せず。 それからまた大学に戻り、メンザで昼食。すぐにゲストハウスに戻り、テレビを 消してすこし数学。再びマリエン教会に行き、午後の開館14時半をすこし過ぎ た頃から閉館時間の16時までスケッチの続き。ほぼ完成したが、仕上げのために もう10分間程度の時間が欲しかったところ。大聖堂教会をさっと偵察してから、 ゲストハウスに戻り、すこしテレビを見てから、夕食を挟んでしばし数学。
今日も数学者同士安否に関するメールがちょくちょく流れてきた。「仙台の 友人達」の安否情報や、「日本の友人たち」の安否を気遣うEU圏の某大御所 数学者夫婦のメール。ふーん、彼らは「友人たち」という言い方をするのか。 数学者たちの世界に、そんなほのぼのとした温かい言葉が似合うような、麗し くもハイブロウな側面があったとは知らなかった。 「お前ら、どうせ俺サマのことを馬鹿だと思ってんだろう!」の自虐私観に 凝り固まっている私には、この感覚は全然わからない。「数学者同士に友情 なんてものが存在しうるの?」と、ちょっとびっくりするぐらいだ。 きっと「友人たち」の世界の人たちは、アホな質問メールを黙殺し合ったり、 みたいなえげつないことはしないんだろうな。
2011年3月13日(日)
<<私の友人>>
こちらに居て特に何かできるわけでもないので、午前中は数学でもと思ったが、
やはり仕事には手がつかない状況。結局この現実をしっかり見届けておく
ことが大事だろうと、N24の特番とNHKテレビニュースの
インターネット版などを見て終わった。日本の報道は生存被災者の現状や今後の
支援、東京圏の計画停電などに重点が移ってきたようだが、
ドイツの報道は相変わらず福島原発の問題が半分以上を占めていて、
時折津波被害の最新映像が流れていたものの、字幕スーパーは"Regierung
schliesst Kernschmelze nicht aus. (日本政府は核熔融を排除できず)"と
表示されたまま。
やはり見てるだけで何もできないし、腹も減った氏ということで、 昼は街に出た。帰国も近いし、もう一度羊の肉のケバプを食べておこうかと、 聖ヨハン教会近くのいつもの店に行く。その後、聖ヨハン教会を描いたスケッチ のコピーに色塗り。日曜日は多くの店が閉まっていて人出が少ないので、作業がし やすい。それでも私と同世代ぐらいの男が通りがかりに覗き込んできて、「綺麗だ! 絵を描いて売ってるのか?」みたいなことを聞いてきた(と思う)ので、 「有難う。でも、これは趣味で描いている」と答えたら、もう一度「綺麗だ!」と 言って去っていった。
大学に入学して以後今日まで、誰かに褒められたことの9割は この1ヶ月に集中していて、それは全て私の絵に対してである。 残りの1割は「高山君は馬鹿だけど、それなりに頑張ってるね」 みたいな、この俺サマを馬鹿にしてるのか励ましてるのかよくわからん 若手叱咤激励型のものばかりで、全て20代の頃である。 30代以降はあからさまに馬鹿呼ばわりされることは無くなったが、 丁重な質問メールをあからさまに黙殺されたり(まだ言ってる!大先生、しっかり ネタにされてしまったな)と、「口には出さねど馬鹿は馬鹿!」 みたいなことばかりである。やっぱり進む道を誤ったかな。 でも絵で食ってくのは大変だし、生活のために(も)、引き続き頑張って数学 をやっていかなきゃ、と決意を新たにする。
それから聖カタリネ教会のスケッチをしてゲストハウスに戻り、しばし テレビとネットのニュースをチェック。ドイツのテレビはさらにエスカレートして、 N24とは別のZDFのニュース番組では、"Super-Gau in Japan?(日本でチェルノ ブイリ級の原発大事故が起きるか?)"みたいな字幕が出ていて、専門家とおぼしき 人が「可能性は低いかもしれないが、チェルノブイリ級の爆発が起きれば、 核汚染物質が上空高く吹きあげられ、ジェット気流に乗って2週間ぐらいで ヨーロッパに達するでしょう」みたいなことを言っていた。
日本の報道はパニックを恐れて現状の報告に絞っているようだが、 ドイツの報道は最悪の事態を想定して、「実際にそうなるか?ならないか?」 とやきもきしているような感じが見受けられる。ドイツにとっては、 「2週間後に日本からやってきた核の雨が降ってきてチェルノブイリの再来 が起こるのか?」という問題と、福島原発の事故が、老朽化している現有原発の廃止時期を延期したドイツのエネルギー政策にどう影響を与えるかが最大の関心 だから、報道のスタンスが日本と違ってて当然かなという気もする。
で、やはり自分にできることは何もないと諦め、18時から開かれる マリエン教会のオルガンコンサートに出掛ける。J.S.バッハの受難曲を 聞きながら教会の天井を眺め、なんて綺麗な曲線なんだろうと溜息。 嗚呼、あと2週間余りでこの素晴らしい曲線と、そして 第二次世界大戦の空襲で壊滅的な打撃を受けたにもかかわらず、 この美しい教会を始めとして、数多くの歴史的遺産を復興させた、 誇り高きこの街の人々とお別れかと思うと、悲しい。 そういえば最近はあちこち風景をスケッチして回るのに忙しくて、教会で 静かにすごすことがなかったな。
コンサートは19時過ぎに終わり、すぐにゲストハウスに戻り簡単に夕食。 すこしテレビも見たが、すぐに切り上げてしばし数学。と、誰かが部屋のドアを ノックする。先日隣の部屋を「夜逃げしていった」化学者のS氏が、「日本が大変な ことになっているそうだけど、お前の家族は大丈夫か?」と見舞いに来てくれた。 彼は夜逃げをしたのではなく、諸事情で上の階の別の部屋に引っ越しただけだそうだ。 年齢も専門も立場も全然違うし、この半年間で今日を含めて合計3回、通算2時間弱 程度話をしただけの人だけど、彼こそが私の友人である。
2011年3月12日(土)
<<特番つづき>>
今日もN24は終日東北地方太平洋沖地震の特番をやっていた。日本の
NHKに相当する(?)Das Erstも、定例ニュース番組でトップニュースで
報道していた。午前中はドイツの災害救助の専門チームが東京に着いたという
話もあって、これで瓦礫の下に人が居るかどうか調べるのだと機械を見せていた
が、夕方以降は福島原発の話で持ち切りという感じで、福島原発1号機の
爆発のシーンが何十回と繰り返し流れていた。
どうも日本の報道に比べてチェルノブイリのような大惨事になる可能性をリアルに
考えているようだ。
画面の下の方にはずっと"Furcht vor Atom-Katastophe"(原子災害の恐怖)と 表示されたまま。その表示は時々"Japaner haben Angust vor Supergau"(日本人 はチェルノブイリ級の原子力大災害の不安に直面している)に変わったりしている。、 気象予報士がヨーロッパの天気以外に、今、原子炉の爆発が 起きれば、この気流に乗って汚染物質がアラスカやアメリカに飛んでいくと解説したり、このような事態に東京圏の人たちはどうしてるのかとキャスターが 東京の特派員に質問して、特派員は「日本人は極めて冷静に振る舞っている」 と答えていたり、 色々な専門家がインタビューされ、彼らは 一様に、情報が少ないから色々な可能性が考えられるとしながらも、 場合によってはかなり深刻な事態もありうる と言っている(ようである)。
ドイツでは原発廃止を一旦決めたものの、メルケル首相が去年10月に 現有原発の廃止を大幅に延期したため、原発問題は関心が高いようた。 今回の件で「技術の高い日本でも100%の安全が確保できないのだから、 ドイツの原発は絶対廃止すべきだ!」という反原発デモが行われたと 報道されていた。
メルケル首相が外相と行った記者会見で、日本に対するドイツ政府の立場 を表明していて、ドイツの技術力やその他の面でできる限り日本を支援していきたい といったことの他に、原発問題に対するコメントや質問が数多くあり、かなり国内 向けを意識した内容(のように思えた)。この記者会見で、 ドイツ語の発音からして日本の報道関係者だと思うが、日本のことはドイツには あまり知られていないので、この機会にドイツ政界のトップが日本を訪問してする ことが重要だと思うがどうか?などとトンデモナイ質問をしていたが、メルケル首相は冷静に(この人はいつも冷静である)、今、日本は取り込み中だから、こんな時に行けば迷惑になるだけだろうと思うと答えていた(ようである)。
また環境問題かエネルギー政策が専門の某大学教授は、日本政府がパニックを 恐れるためか、情報をあまり出さないのことにフラストレーションを感じていると 言っていた。さらには、情報が少ないことによってかえってパニックが起きるの ではないかとも。情報を出さないのではなく、出せないのだと思うけど。
午前中は洗濯、アイロンかけ、昨日描いたゲストハウスの外観のスケッチに色つけをする。N24でニュースを見てても同じ内容の繰り返しだし、ドイツに居ては何も できないなと、街に出る。レストランで遅めの昼食の後、その辺をすこし偵察した後、 中央駅まで足を延ばして先日描いたスケッチに色つけ。それからNeumarktまで戻り、 その近でスケッチ。その後スーパーで少し買い物をして帰る。
夕食後、少しだけ数学。またテレビやネットで地震関連の報道を漁る。
2011年3月11日(金)
<<東北の地震>>
朝8時、ソプラノの声で目が覚める。夜更ししているので、8時起きは辛い。
ロシアのシコ踏み女が去って、やれやれと思ってたのだが、最近
ソプラノ女が移り住んできて、朝と夕方に30分ぐらいキーキー騒いでいる。
「曲者!」とか言って下から槍で突いてやろうかしらと思うが、
オスナブリュック大学に音楽系の学科があるから、そこの関係者かもしれない。
あと2,3日で居なくなるようなので、しばし様子を見る。
シコを踏んだり、朝っぱらからソプラノで吠えてみたり、洗濯機を まる1日占拠してみたり、アイロンを3日以上抱き込んでみたり、 ゲストハウスには色々な奴が入って来る。最近はまた、玄関のドアを わざわざ内側からカギを回してオートロックがかからないようにして、 泥棒でも誰でも自由に入れるように細工するアホが入ってきて、ソプラノ女と 並び、困ったものだと思っている。
ネットをチェックしたら、どうも東北で大きな地震があったようで、 少し被害も出ているようだ。阪神淡路大震災の時も、最初はあまり被害の 情報はなかった。大災害でなければいいのだがと思いつつ、 午前中はゲストハウスで数学、ついでに庭に出てゲストハウスの建物を スケッチ。それから大学へ行ってメンザで遅めの昼食、研究室で食後のコーヒー。 大学を発ち、近くのコピー屋さんでスケッチ3枚をコピーして、旧市街に向かう。
今日はマリエン教会前のスケッチ2枚に色塗り。市庁舎の入り口の外階段 から広場を望み、まずは1枚目の色塗り。途中、市庁舎から出てきた40代ぐらいの カップルが覗きこんできた。女の方が「うわぁ、綺麗、ちょっと見てていいですか?」 と英語で聞いてきた。何で英語なのか。オスナブリュックでこの私に英語で話し 掛けて良いとでも思っているのか。こいつ、しばき回されたいのか?と思ったが、 そこはぐっと堪えてにこやかに、OK,OKと。女は連れの男に「ちょっと、 これ見て!素敵よ!」と興奮気味に声を掛けたが、男は興味がないらしく 携帯電話でぶつぶつ話していた。男はドイツ語を話していた。
2枚目は、市庁舎外階段を下りたところにある、市庁舎の建物の1階の レストランRatskellerの1階窓のところに座って作業。今度はアイスクリームを舐めながらやってきた二十歳ぐらいのカップルが通りかかり、あっ、何かやってる!という感じで立ち止り、女の方が「ちょっと見学していいですか?」と。 「勿論、いいですよ」と愛想良く。彼らはアイスクリームを舐めながら、 へえーって感じで暫く眺めていた。
うーむ、人気者になるのって、いい気分。
色塗りはすぐに終わったが、マリエン教会は既に閉まっていたので、大聖堂教会を偵察。黒眼鏡は同世代ぐらいの男と少し立ち話をしてたかと思うと、一緒に教会前広場を横切り、バス停近くの全自動有料トイレの方に向かっていった。何をするのだろうと 教会の入り口のところから見ていると、二人でトイレに入っていった。うーむ、 怪しい。聖堂に入って、一周回って偵察して出てきても、まだ 戻ってきていない。トイレの方に行ってみると、まだ二人で入ったままのようだ。 うーむ、ますます怪しい。しかしこれ以上は踏み込んではいけない世界が 広がっているような気がしたので、調査を中断して大通りに向かう。
大通りの哲学者は、爪を切ったり、パイプをふかしながら読書にふけってたり していたが、先日「娘」に泣きつかれていた時のパイプとは違うものを使っていて、 しかもいつも持ち歩いている ブルーの円筒形水筒ではなく、ステンレスの三角注型の保温ポットを持っていた。 スーパーで少し買い物をしてから、ゲストハウスに戻る。
夕食まで間があったので数学でもと思ったが、結局テレビで東北の地震情報を見ることに。N24というドイツ版CNNみたいなニュース専門の放送があって、特番を組んで結局私が見始めた夕方から夜中にかけて、ずっと東北の地震の報道をやっていた。沿岸地方を津波が襲う映像を何十回と見た。阪神淡路大震災の時は、倒壊した建物の下敷きになった人が多かったが、今回は津波の被害が酷そうだ。今朝の嫌な予感が当たって しまった。メルケル首相が日本政府に対して、あらゆる救援支援の用意があることを伝えたと報道していた。ヨーロッパはチェルノブイリで懲りているせいか、 原発の不具合の問題には特別の関心があるようで、他のニュース番組を見てもか、 大きく取り上げていた。
2011年3月10日(木)
<<オッサンが入る>>
今日も天気がおもわしくない。午前中はゲストハウスで数学。というよりは、
フランス語の翻訳というのに近い。印刷状態があまりにも悪く、古文書の
解読にも近い。何せ半世紀前のタイプ印刷だし。
昼過ぎに大学に行き、メンザで昼食、研究室でコーヒー、そして図書館で しばし調べ物。それから、時折小雨がぱらつくなか、街に出る。例によって マリエン教会をちょっと覗いて、大聖堂教会の聖堂を一周して偵察。そういえば 黒眼鏡はみかんの袋についている白い屑をちまちま取りながら食べていた。 彼はドイツ人には珍しくリンゴを皮をむいて食べるし、いったい何処で育った のだろうか。
それから大通りに出て哲学者のすぐ前を通過。彼は最近読書はせずに、物乞い コップを持ってじっと思索に耽っているようにも見える。彼の鞄の一つには、 新しい本が入っているが、それを読むのは何時かしら。兎に角先を急ぐ。
最近中央駅には全然行ってないし、ちょっとスケッチでもしてみたいなと、 何となく行ってみる。そういう時はちゃんとスケッチに最適の場所が見つかるもので、 早速作業開始。結局1時間半かかってデッサンした。最初の1時間で3分の1も 描けてなくて、体も冷え切ってしまったので、暖房のきいた駅舎に入ってしばし休憩。 態勢を整えてからまた作業を開始したが、休憩が十分でなかったため、やはり寒く、ガタガタ震えながら30分で残りを一気に描き上げる。
出来あがった絵を見てみると、構図が全体的に下がり過ぎて、 ちょっと重い感じがする。それに、最初の1時間で描いた部分は最近の描き方、 残りの30分にやっつけ仕事みたいにして描いた部分は、 中学時代から約10年前まで変わってなかった描き方になっていた。 線の描き方がずいぶん違う。あー、ジギルとハイドみたいなデッサンになってしまった!どうしよう?!どうするもこうするも、「ま、いいか」で済ませてしまう。
最近の描き方と言っても、実は小学生の頃までやってたやり方が復活したみたいな ところがあって、それに中学以後の方法が組み合わさって、新しいものが出てきたって感じ。
それにしても、ちょっと前までは中学時代の自分を、遠くにありながらも 何かしら現在の自分と繋がったものと感じていた。しかし最近はかなりオッサンが 入ってきたのか、昔の自分に対して「あいつ、誰や?」みたいな感じがしている。 だから、今日みたいな形で中学時代の線が絵に現れると、「何かの拍子にえらい わけのわからんものが飛び出してきたなあ」と、ちょっとドキッとする。
しかし、そうは言っても3週間ぐらい前に10年ぶりにスケッチをした時は、 中学時代の線が当たり前のように出てきてたわけで、それから1、2週間で 一気に新しい線が出てきて、それが当たり前みたいになってしまった。 だからもしかして、2月下旬の1、2週間で一気にオッサン化が進行したのか もしれない。それはそれで大変なことだから、すこしはじたばたしてみないと いけないが、何をどうじたばたすれば良いのか分からない。
オッサン化したのかどうか知らないけど、昔の自分とずいぶん違うなと ふと思う時は、他にも色々ある。例えば、数学の若手の人と少し話をしたり すると、「ああ、この言葉の端々にほとばしる、ギラギラした野心が眩しい」 と何だか胸が痛む。この胸の痛みは何?と自問すると、そういえば私には 野心というものがまるでない。何で野心などというシンドイものを自分の 内に飼っておかねばならぬのかと思うが、昔は私も野心ギラギラだった ような気もするし、野心が無くなってから初めて自由になれたような気もする。
アホだ馬鹿だと言われ続けてン十年、さらに数学に転向して以後潜伏 生活10数年、欧州系研究集会のアホ除け選考ではバタバタ弾かれ、大先生 質問3回で黙殺を決め込まれ、というアホみたいな職業生活と野心は両立しない。 無理に両立を図ると10年もすれば擦り切れる。死んだフリしながら、 実は数学やってます!という匍匐前進的戦略で体力を温存しつつ、すこしずつ 前に進むのである。この辺がオッサンの狡猾さなんでしょうね。どんな馬鹿でも 数十年馬鹿だ馬鹿だと言われ続けると、少しは狡くなる、と。
スケッチを終え、駅前のマック・カフェに入ってホット・ココアで少し温まって から家路につく。途中スーパーで少し買い物。哲学者は鞄に突っ込んであった本を 読んでいた。ゲストハウスに戻ってすぐに夕食。その後、少し数学。
2011年3月9日(水)
<<COOL!の人>>
今日の午前中は曇り、午後からは雨との予報。週に1度のB先生との面談日。
少し早目に行って、ノートをプリントアウトしたり、8月のトロントの会議
の参加者リストを確認したり。
トロントの会議は一応レジストレーションしたのだけど、 ヨーロッパの会議みたいに、「お前は馬鹿だから来るな!」みたいなことで 参加者リストから私の名前が消去されはしまいかと心配で、まさかとは思うが 時々Webサイトをチェックしている。今日もまだ私の名前があった。 やれやれである。
11時過ぎから12時過ぎまで面談。その後メンザで昼食、研究室でコーヒーと 帰国準備作業を少し、図書館で文献コピーの後、大学を発つ。大学近くの コピー屋で風景のスケッチ2枚のコピー。今日は天気が悪く、光の具合が よくないので風景画の色塗りは中止し、次のスケッチの場所捜しをする。
マリエン教会前広場の市庁舎を考えたが、なかなか良いアングルが見つか らない。 大聖堂教会と黒眼鏡をさっと偵察し、大通りを抜けて哲学者が本も読まずに じっと座っているのを確認し、Neumarktを抜けてヨハン通りに入り、 聖ヨハン教会まわりを偵察する。やはり狭いところに巨大な教会が建って いるので、なかたか良い場所が見つからない。眺めの良さもさることながら、 作業のし易さも大事である。絶妙のアングル!と思ったけれど、それは 車道の真ん中だったというのでは、ちとやりにくい。
ようやく写生スポットが決まった時には、雨も上がっていたし、「じゃあ、 今、描いてしまおうか」と。
やはり商店街の歩道の端っこで描いていると、誰かれとなく覗き込んで来て、 そのうち2,3人は「貴方は(本職の)芸術家ですか?」とか 「COOL!綺麗じゃないか!」と声を掛けてくれた。COOL!の人はかなり 酒臭かったぞ。ま、いいけどさ。これでスケッチが16枚できて、 「論文水増し」のコピー色塗りで最低全32点 と皮算用。これだけあれば寺町通で個展が開けるな。ふっふっふ、と。
小一時間ぐらい道端で描いていると、さすがに体の芯まで冷え込んでしまう。 オスナブリュックはもう春の気配が漂っているけれど、日中の気温はそれでも せいぜい7〜8度程度である。ガタガタ震えながら、暖房がきいている近くの スーパーに入り、しばし買い物。それから大通りを北上して帰宅し、すぐに夕食。
その後は数学。印刷も消えかかっている古いフランス語の論文の解読。 勢いに任せて、英訳をTeXで打ち込みながら読み始めたけど、フランス語のまま 読む方がやっぱり効率的かなと、どっちみちTeXでノートを書きながら読むの だから、いっそのこと英訳の方でもいいじゃないかという乱暴な説もあり。
2011年3月8日(火)
<<絶妙のタイミング>>
今日も快晴。午前中はゲストハウスで数学。昼頃に大学のメンザに行って昼食の後、
研究室で食後のコーヒー。さてと、図書館で調べものをさくっと済ませて、また
旧市街に繰り出してスケッチをするかと廊下に出ると、少し離れた事務室から
B先生が現れた。で、「今日、講演があるのを知ってるか?」と。知りません。
知りたくもありません。
過去2回の代数系博士論文公聴会がそうだったけど、 何でいつもいつもそういう話が、突然かつ偶然、しかも直前にしか私に知らされ ないのでしょう?しかも、いつもいつもB先生が、突然かつ偶然に、しかも直前 になって絶妙のタイミングで図ったかのように私の前に現れ、「今日、○○が あるのを知ってるか?」とくる。貴方は妖怪ぬらりひょんですか?しかも私が廊下 に出るタイミングがあと30秒遅れれば、もう今日の講演のことなど永久に知 らされることはなかったわけですね。それとも調べものを終えて出てくる私を、 図書館の前でぬらりひょんと待ちかまえているのでしょうか。
ま、こんな話にいちいち付き合ってられないなと思いつつ図書館で調べもの。 そして、一応B先生が開始時間と言ってた15時きっかりにセミナールームに行き、 誰も来ないことを確認してさっさと旧市街に繰り出す。
今日はマリエン教会の外観のスケッチ。教会前広場がそれほど広くないので、 巨大な教会を見上げるようにして描かないといけない。それで教会の全体と周りの 美しい家並みも描こうとするとちょっと大変だが、そこは教会の天井を描いて 得られたノウハウが使える。
スケッチが終わり、次はスーパーで買い物。と、スーパーを出たところで B先生がポスドクのJ氏と暇そうに立ち話をしてる。またぬらりひょんと絶妙 のタイミングで現れたな。「ハロー、ユキヒデ。何で 講演に来なかったんだ?」と(講演はドイツの伝統に従って15時15分から 開始されたそうである)。
知るか、ぬらりひょんめが、と言いたいところだが、 「帰国が近づいて、色々やることがあるんだよ」と答える。そう、帰国が近づいて いるから、あっちこっちスケッチしておかなくっちゃ、と。 まあ、そういうことだ。インデアンと高山は嘘つなかいね。
私は次の買い物があったので、B、J両氏と別れ雑貨屋スーパーや文房具店へ。 文房具店を出て、さてとゲストハウスに戻るかとしばらく歩いてたら、「ハロー、 ユキヒデ!」と。お前、さっきから何なんや?1日に3回もぬらりひょんする なっつうの!と暴れてやろうかと思ったが、まあ、彼も自宅に帰るところだ そうだから、その先の信号のところまで一緒に歩き、そこで別れる。
そういえば、B先生は「お前が帰る時は空港まで送っていってやるからな」 みたいな事を言ってたな。まあ、その気持ちは有難いけど、 6ヶ月と2週間の期間に合計12、3時間数学の話をして、 さらに通算5分ぐらい雑談しただけのオジサンと二人きりで空港まで行くのって、 気づまりだな。たとえば、出発の正確な日時は「決まったら知らせる」としておいて、 B先生が絶妙のタイミングで、偶然かつ突然、しかも直前に私の前に現れたら、 「今日○○時の便で帰るんですけど、知ってました?」みたいな感じで言おうかと 画策している。
2011年3月7日(月)
<<根拠のない楽観>>
掃除の日。8時起床9時出発。本日も快晴、気温はマイナス1度。旧市街のスーパー
でデポジット返却マシンに空瓶などを返却し、その後少し買い物。それからNeumarkt近くのコピー屋に行ってスケッチ3枚をコピーし、その足でマリエン教会に向かう。今日は外が寒いし、まずは教会の中でスケッチのコピーに色塗りでもしようか、と。
しかしマリエンに到着したのは9時40分ぐらいで、10時半の開館までまだ時間がある。そこで市庁舎の入り口外階段の踊り場で、マリエン教会前広場のスケッチをすることに。寒くなったら、市庁舎の中に入ればよかろうと。
スケッチを終えた頃にはマリエン教会も開いていたので、速攻でスケッチの色塗りをすませる。あと2枚の風景画の色塗りもと思ったが、午前中なので太陽の光の加減が悪く、日当たりの良い午後に延期。ゲストハウスに戻ってマリエンで色を塗った絵を仕上げる。それから大学のメンザで昼食をとり、研究室で食後のコーヒーを飲みながら、日本に送る資料を大型封筒に詰める。作業が終わったらすぐに大学を発ち、再び旧市街へ。風景画2枚のスケッチのコピーに色塗りをし、ゲストハウスに戻って仕上げをする。これで15時をまわったところ。そこで洗濯をしながら、しばし数学。
洗濯終了後、アイロン掛け、夕食、しばし数学。
今日は色塗り3枚、デッサン1枚の合計4枚描いた。1枚デッサンして、それをコピーして色を塗って2つの作品にしているのだから、1つのネタを水増しして2本論文を書くような話である。しかし絵の方が快調であることには変わりなく、前にも書いたが私の半生でこれほど多産な時期は(たぶん幼稚園時代を除いて)他には見当たらない。
しかし数学研究の方はなかなか進みませんなあ。先日、嫌な夢を見た。何故か私は 東大数理科学研究科の大学院生で、「研究論文作成法」とかいう授業を受けている (勿論、実際東大でこのような授業をやっているかどうかについては、知らない)。 そこでの課題は、「各自研究テーマを見つけ、研究計画書を作ってみよ」というもの。授業時間中に出来なくても、来週までには提出しなければならない。 「この課題の出来栄えが悪い人は博士課程には残れませんので、その積りで」とか何とか、目のつり上がった賢そうな担当教授だか准教授だかがおどかすのだが、私は「研究テーマが見つからないよう!」と泣きべそをかいている。研究すべき問題は沢山あるけれど、自分が解けそうな問題をうまく切り出せずにいるわけである。
世の中には二種類の人間が居る。多くの人が集まっていると、そこに自分も入っていきたくなる人と、できるだけひと気のない所に逃げようとする人。私は明らかに後者の タイプだが、馬鹿のくせに人畜未踏の地に足を踏み入れてしまったのか?担当教授だか 准教授だかは難しい顔をして、「君、そっちに行ってしまうと、もの凄く難しいよ」な どと言っている。
ま、これは夢の中の話だし、現実はもうちょっとなんとかなるだろう、と根拠のない 楽観をしておく。
2011年3月6日(日)
<<夢の共演>>
快晴の日曜日。午前中はゲストハウスでゆっくりして、昼過ぎに街に出る。
昨日のどんちゃん騒ぎの名残で、所々シュナップスの瓶の破片が道端に落ちてたり
するが、一応一晩で某大な数の仮説トイレや、マリエン教会前広場の飲食物販売屋台や、道路に散乱していた膨大な量のゴミはほとんど撤去されていた。大晦日の花火もそうだが、こうやってたまにどんちゃん騒ぎして街じゅうをゴミだらけにしても、
一晩でさっと片付けるノウハウがあるのだろう。毎年のことだしね。
昨日中止を余儀なくされたデッサンの色塗りをしようと、教会に行ってみたのだが、 マリエンも大聖堂も日曜ミサの最中で入れず。大聖堂教会の入り口では、昨日ヨハン通りですれ違った、例の根性なし物乞い女が座っていた。 とりあえず色塗り作業は後回しにして、天気も良かったので、大聖堂 教会をスケッチした。途中、Hallo, guten Tag!と挨拶する男が現れたので、ふと見 やると、大学のポスドクの某氏だった。貴方が絵を描くとは知らなかった、なかなか良いじゃないですか。では、良い休日を!と去っていった。
この男は私が絵を描くことも、私がアホであることも知らなかったらしい。もしかしたらアホであることは、まだ知られてないのかも知れない。何故ならば、もしアホであることを知っていたら、数学者の習性として「あ、あそこにアホの高山が居る。何やってんだ?あ、絵なんか描いてるぞ。アホな癖に絵なんぞ描きよって。アホを移されると嫌だから近づかないようにしよう」と考えるだろうし、Hallo, gute Tag!なんて 挨拶なんかしてこないと思われる。
スケッチを終えた頃にはミサが終わっていて、さて色塗り作業でもするかと大聖堂教会の入り口のところに行ったら、いつの間にか根性なし物乞い女は去り、黒眼鏡が向かって左のいつもの場所に居た。そして向かって右には、何と!哲学者が座っているではないか!?夢の共演とはこのことだ。黒眼鏡は通常自分ひとりの時しか教会の入り口には座らず、根性なし物乞い女やにわか物乞い男など、他の物乞いが居る時には姿を見 せない。しかし相手が哲学者だと話は別のようだ。
哲学者は私に会釈した。これが教会に入る人間の誰に対しても行う会釈なのか、 それとお特に私を知っているからなのかは不明。
大聖堂に入って3枚のスケッチに色塗りをして、教会を出ようとしたとき、入り口のところで痩せて背の高いオジサンが黒眼鏡や哲学者と世間話をしていた。私は外に出て、昼食用のリンゴを取り出してかじりながら、「さあて、天気もいいし、これからどうするかな?」みたいな感じで教会の前にたたずみ、あたりを見回すようなそぶりをしながら、背中で彼らの話を聞いていたが、勿論何を言っているかわからない。おぼろげながら、初対面の話のような印象をもった。日本人は初対面の人間とああいう話し方は決してしないが、ドイツ人なら十分ありうる。最後に背の高いやせぎすオジサンは「じゃ、さよなら」と知り合いと別れるときのような感じで去っていった。
一旦ゲストハウスに戻り、水彩色鉛筆で色を塗った絵を水を含ませた絵筆でぐしゃぐしゃっとやって完成させ、写真に撮り、PCに入れる。この段階でまだ15時をまわったところ。空はまだ明るく快晴のまま。このままゲストハウスに居るのももったいないと、再びマリエン教会に行き、4枚目のスケッチの色塗りをして、すぐに戻って仕上げ作業。それでもまだ16時をまわったところなので、それから夕食を挟んでしばし数学。何故か最近大学のメーリングリストに登録されたらしく、大学院生とポスドク向けの研究集会の案内メールが流れてきた。帰国の直前にメーリングリストに登録してもらってもねえ。
夜は帰国のための荷物の整理を少し(の予定)。
2011年3月5日(土)
<<どんちゃん騒ぎ>>
午前中はゲストハウスで数学。昼頃、大聖堂教会でスケッチの色塗り作業をしてから遅めの昼食でもと旧市街に出たら、、、街が大変なことになっていた。
今日は謝肉祭の行事Ossensamstag(オスナブリュッカーの土曜日?)が 旧市街全体で繰り広げられる日だった。私がマリエン教会前広場に着いたときは、 ちょうど聖ヨハン教会を出発して旧市街を練り歩いてきた、おびただしい数の 音楽隊や、仮装行列や、トラクターに引かれた山車などの先頭が到着したばかり だった。山車の多くは大音響で音楽を鳴らしているので、それが前を通る時は ドンドンドンというパーカッションの音が胸や腹に響き、人によっては不整脈 が誘発されるんじゃないかと要らぬ心配をしてしまった。日本でも時々頭の イカれた兄ちゃんが、窓を全開にした車からカーステレオの大音響を出しながら 信号待ちをしてたりするが、そういうものを想像すれば大体合っている。
それを道路わきで見物している市民の多くも、悪魔や魔女、プレスリーやセーラームーンやミニスカポリスやゴーストバスターやミッキーマウスやフランケンシュタインや、その他わけのわからないものに変装仮装して、ビール片手にテンションも高くといった調子。あたりには煙草の吸殻、ビールやゼクトやシュナップスの空き瓶が散乱し、その多くは割れていて危険である。時々酔いつぶれた兄ちゃんも転がっていて、街かどで待機している救急隊のお世話になったりしている。救急隊以外にも警官が大量に動員されていて、彼らの一部は警棒は勿論、脛を守るプロテクターをし、フルフェイスのヘルメットを小脇に抱え5人ぐらいの編隊で待機している。
街のあちこちには大量の仮設トイレが設置され、どれも数名程度の行列ができている。大通りの店舗はサンドイッチやケバプ、ピザなどのファーストフード店を除いていずれも臨時休業で、NeumarktのGaleria Kaufhofなどは高さ2メートルほどのフェンスを張って店に近づけないようにしてあった。しかしファーストフード店は店先に臨時販売コーナーを設けてビールなどを売りまくり、店内では魔女やセーラームーンに仮装した店員がピザやサンドイッチを販売するといった按配だった。
フェンスを張っているのはKaufuhofだけではなく、市立図書館や年中無休のマリエン教会や大聖堂教会も、入り口周りを中心に広くフェンスでガードし、「本日Ossensamstagのため終日休館」の張り紙がされていた。哲学者の休日の住処もフェンスに囲まれた立ち入り禁止区域に入っていたが、彼は広場の喧騒を嫌ってか、フェンスの内側のいつもよりもより奥まったところに潜んでいるのが確認された。
かくして、私は計画変更を余儀なくされ、スケッチの色塗りは明日以後に延期された。街のスケッチも、このどんちゃん騒ぎの中ではどうも落ち着かないし、教会に張り巡らされたフェンスや酔いつぶれた兄ちゃん、飲み過ぎて壁によりかかり半分寝ているオジサン、散乱するゴミ等等を描きたいとも思わないし。
昼食は聖ヨハン教会近くのケバプの店でテイクアウトのサンドイッチにありつくのがやっとだった。昼食をすませヨハン通りを南下して聖ヨハン教会に向かう途中、 この顔にピンときたら110番。一瞬すれ違ったのは、時々大聖堂教会で座っている 根性の足りない物乞い女だった。こんな所で何をしてるんだろう。ま、いいか。
スーパーの買い物も旧市街は全店休業だったので、大学近くまで足をのばし、旧市街の外のスーパーまで出掛けた。
一旦ゲストハウスに戻り、しばし数学と居眠り。16時過ぎにもう一度旧市街に偵察に出たが、パレードは終わってたものの、教会や店舗は閉鎖されたまま。そして人々は街のあちこちにたむろし、どんちゃん騒ぎを続けていた。
どんちゃん騒ぎ。嗚呼、なんて素晴らしい響きなんでしょう。記憶の限りでは、私は生まれてこのかた一度もどんちゃん騒ぎをしたことがないし、基本的にどんちゃん騒ぎができない人間である。しかし、「どんちゃん騒ぎ」という言葉や、それが指し示す実態には、ある種の憧れにも似た気持ちを持っている。すくなくともこの日誌で、言葉のどんちゃん騒ぎをしている積りだけど。
ゲストハウスに戻り、夕食を挟んでしばし数学。
2011年3月4日(金)
<<答は決まってる>>
午前中はゲストハウスで少し数学。それから街に出て、11時半頃にマリエン教会に到着。早速コピーしておいたスケッチに色塗りをする。20分程度で終了し、大聖堂教会へ。黒眼鏡はまだ「出勤」していなかった。聖堂に入り、別のスケッチのコピーに色塗り。これも20分程度で終了。教会を出たら、入り口のところに黒眼鏡の荷物が置いてあった。黒眼鏡はどこ?
それから大通りを偵察。哲学者も荷物を置いたまま姿が見えず。例の推理小説を30冊ほど包んだ大きな布は閉じられたまま地べたに置かれ、まだ店開きをしてない模様。 そのまま通り過ぎてThalia書店を偵察。書店から戻ってくると、哲学者がいつもの場所に座っていて、しかも二十歳ぐらいの娘が前にいた。娘はなにやら哲学者に激しく 語りかけている。見ると哲学者はパイプなどを吸っている。今までは手巻き煙草だったけど、今度はパイプかいな。遠目にそれとなく見ていると、娘は激昂して地面に膝を つき、哲学者の膝によりかかって顔をうずめていた。
これはただことではない。
娘:「お父さん、こんな所に居たの?さんざん捜したのよ。ここで何してるのよ!?」
哲学者:「何してるって、見ての通り、物乞い稼業さ」
娘:「お母さんはあれから病気になって、大変なのよ」
哲学者:「それで?」
娘:「『それで?』って、もう!早く帰ってきてよ!」
哲学者:「そんなこと言われてもなあ」
娘:「何でもいいから、帰ってきてよ!わーっ(泣)」
みたいな話なんだろうか。
近くで話を聞いても、どうせドイツ語わかんないし、あまり近くでウロウロしてる と感づかれてその後の調査がやりにくくなるといけないので、遠目に見るだけで調査 を打ち切り、スーパーで買い物をしてゲストハウスに戻る。
ゲストハウスで早速水を含ませた絵筆で2枚の絵をぐしゃぐしゃっとやり、完成させ、写真を撮り、PCに入れる。うーむ、素晴らしい。俺サマでおナルな私にとって、 世界で一番面白いブログはこの日誌であり、ピカソとクレーとミロとターナーと 佐伯祐三と鳥海青児と三岸節子と織田広喜と平井憲迪と、、、(あと10人ぐらいの名前が並ぶかも?)に次ぐ世界でもっとも美しい絵は自分の絵である。ふっふっふ。
そして大学に行き、メンザで遅めの昼食の後、隣の数学教室の建物に行くのが億劫だったので、メンザカフェで食後のコーヒーを飲み、すぐに大学を出てコピー屋さんへ。 今日は週末の作業用に4枚のスケッチのコピーをとった。そして旧市街に向かう。
今日はマリエン教会でスケッチをと思っていたが、日中は気温が6度ぐらいに上がって日も照っており暖かかったので、街の風景を描くことにした。街の風景のスケッチは簡単である。30分ほどで終了。しかしその間に寒くなってきて、外していたマフラーをし、毛糸の帽子も被りなおした。その間、通りがかった小学生の男の子二人組が 興味深そうに覗き込んできたし、駐車してあった車に乗り込もうとした、オジサンの 域にしっかり足を踏み入れたばかりの男も近寄ってきて覗き込み、「綺麗だね」と言ってくれた。
うーむ。やはり私は道を間違えたのかもしれないな。数学やってても、皆、高山 は馬鹿だと思っているから、オスナブリュック大学に半年滞在してても誰も私や私 のやっていることに興味を示さないし、話しかけても来ない。 責任感の強いB先生は、受け入れ教授の立場上お義理で月平均2時間強程度(月平均10分程度の雑談を含む)私の相手を してくれるが、B先生と同じぐらいエライその辺の数学者に数学の質問をすれば3回目 で黙殺され、ヨーロッパ名物アホ除け選考付き研究集会には片っ端から蹴られる。 この連戦連敗人生を明るく乗り切るには、高度なマゾの素質が求められる。
それに対して、街でスケッチしてたら30分もすれば誰かが興味深そうに近寄っ てくる。皆、私や私の作品に敬意を示し、お世辞かもしれないが私の絵を「綺麗だ (Schoene!)」と言ってくれる。俺サマでおナルな私としては、どちらがいいかと 言えば、そりゃあ答は決まってるわな。
まだ日は高かったけれど、体の芯まで冷えたので、スケッチを終えてからすぐに ゲストハウスに戻る。それから夕食を挟んでしばし数学。
2011年3月3日(木)
<<量産体制>>
午前中は旧市街に出て、家賃の振り込みをしたり、スーパーで買い物
をしたり、コピー屋さんでスケッチの原画2枚をコピーして大聖堂
教会で色塗りをして、ゲストハウスに戻って水をつけた筆でぐしゃぐ
しゃっとやって作品を完成させ、写真をとってPCに入れたり。
ところで何でコピーを取って色塗りをするのかというと、
要するにスケッチだけで1つの作品になっているし、
それに色を塗って失敗すると全てを失うからである。
午後は大学に行ってメンザで遅めの昼食。その後図書館で文献 を少しコピーし、すぐに大学を発ち、近くのコピー屋さんで別の スケッチの原画2枚をコピー。これは明日の色塗り用。そして そのままマリエン教会に行き、14時45分頃から昨日の スケッチの続き。15時半頃に完成。今日は3枚の作品を完成 させた。うーん、驚異的な量産体制だな。数学の論文も、 こんな風に量産できたら愉快だろうね。
教会を出て街をすこしぶらつき、Leysiefferのプラリーネを買ってゲストハウスに戻る。
そういえば街では哲学者が布の上に本を20〜30冊ぐらい並べて展示したまま、どこかに行って不在だった。本は同じシリーズの推理小説のようだった。これを売って小銭を稼ごうというのだろうか。大聖堂教会の黒眼鏡は、午前中に私がスケッチの色塗りをしに行ったときは居なかったが、夕方にはちゃんと「出勤」していた。私が見たときは 立ちあがって教会を離れ、振り返って教会の建物の上の方を眺め、また元の位置に戻っていた。不審な動きだが、上から何か落ちてきたのかもしれない。
夕方ゲストハウスに戻り、夕食を挟んでしばし数学。
2011年3月2日(水)
<<チキンラーメン>>
午前中はB先生との週1度の面談。大学の植物園を通って大学に向かうと、
小さな池に氷が張っていた。気温は0度前後でひんやりとしている。
この感じって、小学生時代の寒い冬みたいだなと思って、ちょっと
膝をかがめて当時の背丈ぐらいの眼の高さであたりを見渡してみた。
すると当時の記憶が一瞬彷彿とした。ああ、そういえばあの頃はこの
近さで池の氷を見てたっけな、とちょっと嬉しくなった。
面談はB先生が多忙とのことで、20分で打ち切り。 それからすぐに大学近くのコピー屋で先日描いたスケッチのコピーをとり、 その足でマリエン教会に向かう。ここは12時で一旦閉鎖されるが、 その20分前に到着し、原画をスケッチした場所に座り、 例の色鉛筆で15分で色を塗る。その間に一度、教会守の当番のオジサンが寄ってきて、ちょっと見せてくれないか、と。勿論見せた。
教会を出てからスーパーで少し買い物。スーパーを出たところから、遠くに 哲学者の指定席が見える。自転車を出そうとしているので、しばらく様子 を見ていたら、荷物を置いて自転車で大聖堂教会の方向に向かっていった。 急いで後を追うと、大聖堂教会の前の全自動公衆トイレに前に泊まった。ああ、 なるほどトイレね、と思ったが、どうもトイレに入る様子もなかった。先客が 出るのを待っているのか。
ゲストハウスに戻り、水を含ませた絵筆でぐしゃぐしゃっとやって紙についた 絵具を溶かして1枚完成。何だかお湯を掛けて3分で出来あがり! のチキンラーメンみたい。水が乾いてから写真に撮り、PCに入れる。 むふふ、またコレクションが1つ増えたわい。と。
それから再び大学に行き、メンザで昼食。その後研究室に寄って、帰国の準備。 と言っても、何もないからーんとした研究室なので、日本に郵送したい資料を大きな 封筒1つに詰めただけだけど。
大学を発ち、再びマリエン教会へ。午後は14時半から16時までが開館時間。 14時40分に到着し、作業場所を特定して14時45分頃からスケッチ開始。 午後は別のおばさんが当番らしく、ちょっと見せてくれと寄ってきた。勿論見せた。 少し話もしたけれど、もう私は長い間まともなドイツ語を話していないから、 ドイツ語を忘れてしまって話しづらい。日本に帰ったらまた語学学校に通って ドイツ語を思い出さなくっちゃいけないな。ドイツに長く居るとドイツ語を 忘れてしまう!
それからしばらくして、当番のオバサンとお喋りしながら教会内を歩いていた オジサンもまた、ちょっと見せてくれないかと寄ってきた。勿論見せた。 減るもんじゃないしね。それにしても、ドイツ人のオジサンの中にときどき居る、 あの独特の調子の良さは一体何なんだろう。ある日の授業にいきなり乗り込んできて、講座のリストラ宣言をしたゲーテの所長もこんな感じだったな。
16時5分前に作業を終えたが、まだ3分の1も進んでいない。また明日続きを 描こう。当面は過去2週間に描きためたスケッチの色塗りと新しいスケッチ描きの 2本立て作業だな。それにしても、毎日1枚ぐらいのペースで絵を描くのは、幼稚園 時代以来じゃないかな。小・中学校時代で週1枚のペース、高校で月1枚以下に落ち、 大学時代はどうにか月1枚。大学を出てからは年1枚以下のペースで、10年前に エッセンに滞在したときに月1枚のペースが復活し、それ以後「歌を忘れたカナリア」 状態になってたから、最近の創作意欲は我ながら驚異的としか言いようがない。 ま、潜伏生活ン十年で、やっと描きたいものに出会えたってわけだ。
マリエン教会を出ると、前の広場で明日大きなイベントがある気配。近くの ツーリストインフォメーションで聞いてみたら、カーニバルが練り歩き最後に そこの広場に集結するらしい。スケッチの作業に支障はないかと思ったが、 教会は空いているとのこと。
ゲストハウスに戻り、帰国時に国際宅配便で送る荷物のリストアップ、 購入価格の確認、段ボール箱への借り詰めなどの作業、宅配業者への連絡など。 CDの購入日の確認では、この日誌の「あの、シリーズの瞬間的復活」記事 が多いに役立った。 CDは沢山買ったけど、結局300ユーロちょっと使っただけだった。 日本に居る時よりも、ちょっとだけハイペースで買ったかも。
夕食後は少し数学。
2011年3月1日(火)
<<破格の待遇>>
ドイツ滞在もあと1ヶ月を切ったか。午前中は昨日買った水彩色鉛筆の試し描き。
まあ、試し描きだからと、デッサンが狂ってるのも気にせずボールペンでゲスト
ハウスの室内をテキトーにスケッチして、色を塗り、絵筆に水をつけてぐしゃぐ
しゃっとやってみる。30分もかからない。と、ややや!?結構いい感じの作品
が出来てしまった。こんなことなら、もっとまじめにデッサンするんだった。
その後しばし数学。
午後は大学のメンザにゆき、遅めの昼食。研究室で食後のコーヒー を飲みながら少し数学。それから大学を発ち、いつもとは違う道を通って コピー屋さんへ。2週間ほど前に描いたスケッチをコピーし、それを持って 大聖堂教会へ。いつものように黒眼鏡が居た。聖堂に入り、前にスケッチを 描いた場所に座って色鉛筆で色をつけ、すぐにゲストハウスに戻って絵筆に 水をつけてぐしゃぐしゃっとやる。今度はまあまあの出来。もうちょっと ノウハウを蓄積しないといけないかな。早速写真を撮ってPCに保存。
うーん、数学する生活も楽しいけれど、絵を描く生活もまた楽しい。数学 もこの世に(私に対して)意地悪な数学者が居なければもっと楽しいのだけど。 でも「(私に対して)意地悪でない数学者」というのは形容矛盾である。 彼らの個人的資質にかかわらず、多くの数学者は(私に対しては)意地悪である。 数学以外の場面ではとても腰の低い人でも、いざ数学の話になると「高山さん、 何を馬鹿な事を言ってるんですか?!」と目がつり上がっている。その人の友人 と称する数学者が「あの男に限って質問メールをもらって黙殺するような意地悪 なことはしそうにない」と太鼓判を押しても、私が質問メールを出すと1度目 は本人の個人的資質で丁寧な返事が返り、2度目に数学者としての職業的 本能が目覚めはじめて、目がつり上がってるんだろうなという文面になり、 3度目には数学者としての一般的習性が働いて「あ、こいつアホや」と 黙殺を決め込むのである。
それにしても、あと1回だけ、「あとは適当な文献を見て自分で考えて くださいね」ということも含めて、ちゃんと返事すれば、「親切ないい人だ。 迷惑かけてすまなかった」と感謝されるのに、黙殺みたいなことをするから、 1、2回目に折角無理して親切に対応したことも、結局全く感謝されずに終わる のである。まあ、私が言うことではないかもしれないけど、そういうところで 損していても、それを損と思わないところが、数学者なんだろうな。 アホと関わることによる人生の損失を思えば、アホに何と思われようと痛く も痒くもない、と。うーん、あまりにも正しい方針だ。正し過ぎる。
そう考えるとB先生はエライ。面会時間を週1回1時間限定としたのは、 アホから身を守るための予防線だろうが、半年間の長きに渡ってよく付き合って くれたものだ。明日で11回目の面会になるが、これまでに9回は数学の話がで きた。この調子だと6カ月余の間に合計12〜13時間程度数学の話に付き合っ てもらうことになる。半年で12,3時間は少ないかも知れないが、 私がアホであることと、メール3回でキレるのが数学者スタンダードか、 あるいは「かなりマシな方」であることを鑑みると、これはアホに対する破格 の待遇であると言っても過言ではない。おおいに感謝しようではないか。いや、 皮肉でも何でもなくて、本心よ。人間がひねくれているから、そういう言い方に なるだけのこと。
その後、夕食の時間まで数学。夕食後は洗濯とアイロンかけ。そしてまた 少し数学。
ゲストハウスの隣の住人がいつの間にか引っ越して居なくなっていた。 12月のゲストハウスのクリスマス会の時に少し話をし、その後も大学で ばったり顔を合わせたり、彼の学科(化学)の講演会に誘われて顔を出したりも した。かなり長く滞在しているらしく、今後もしばらく居そうだったので、 日本に帰る時には「色々お世話になりました」と挨拶ぐらいしておこうかと思って た矢先である。まあ、全然知らない間柄でもないのに、何も言わずに夜逃げするかの ように出ていくとは、ちょっと水臭いんでないかい?と。