一部のブラウザ

よ け ス ペ ー ス で す。

2010年11月30日(火)
<<スイッチが入る>>
ベルリンは寒い。40年ぶりに股引を履いて研究集会会場へ。 昨日は終日曇っていたが、今日は天気が良い。昼食はベルリン自由大学の メンザ。午後は1つ講演が終わってから、会場の移動があり、 チャーターバスに乗ってベルリン中心街にあるベルリン自由大学の キャンパスのひとつに向かう。いやあ、鳩バス観光の気分ですね。 ベルリンはドイツには珍しい大都会で、ちょっとパリに似ている。 パリに比べて建物のデザインが重々しいけど。

移動した会場で講演を2つ聞いて今日はおしまい。近くの レストランに移動して懇親会。

懇親会は例によって座敷童状態を予想して、一番隅っこの席に 座った。ところが懇親会が始まってしばらくしたら、私は スイッチが入ったかのように喋りまくっていて、気の合った どこかの国の学生だかポスドクだかの人たち2,3人で2次会 まで行って、またそこで喋りまくっていた。

私は気が向くとよく喋り、高山はおもしろい奴 だな、みたいなことになることが、過去の経験から知られている。 今回もまた新しい事例となったわけだ。では、座敷童とお喋り 男の落差が一体どこで生じるのか。残念ながら自分でもその 法則性を把握してないが、ほとんど紙一重のところで切り替わっている ようである。

つまり、相手と状況を見て「これは行けそうだ」と判断すれば、 スイッチが入る。何をもって「これは行けそうだ」なのかというと、 まずは向こうから話しかけてきたら第一関門突破。とりあえず 必要最小限の答えだけして様子を見て、その先はほとんど直観で判断している。 この直観は、「もうこの辺で話すのやめようと」、 引き際を判断する際にも働いているようである。

いずれにしてもドイツに来てからほとんど人と会話らしい会話をして ないが、今日の懇親会と2次会だけで過去2ヶ月分はたっぷりお喋りしたな。

日本から参加している某有名数学者の前では、相変わらず謎の中国人の フリをしている。しかし、今日、懇親会会場に向かう路上ですこし話した (向こうから話しかけてきたから)韓国人の一人は、懇親会でその日本人 の隣に座ってたから、もう私のことがバレてるかもしれないな。もっとも、 それ以前から、どうもこいつは私が日本人じゃないかといぶかっているような 様子だったけど。

2010年11月29日(月)
<<ニーハオ!>>
ベルリンは終日薄暗く曇り気温は氷点下。ああ、こんな寒くて薄暗いところ に住んでたら、さぞかし春が待ち遠しいだろうし、太陽が一杯のイタリアや マヨルカ島に憧れるだろうし、ドイツ語寺子屋塾の先生が言ってたように 「ドイツ人は陽に当てときさえすれば満足している」というのも、 さもありなんという気がしてくる。

ホテルで朝食をとってから、研究集会の会場へ。 ん?この顔にピンときたら110番!研究集会のオーガナイザーで あるS先生は、どこかで見た覚えがあるぞ。しばらく考えているうちに、 2004年にエッセン大学に滞在した時にOberseminarでちょくちょく 見掛けた人だと確信した。エッセンで教授資格試験に合格して、ベルリン 自由大学に教授のポストを見つけて移ったのだろう。

昼食はベルリン自由大学の学生に案内してもらって、大学のメンザで。 とても近代的な感じの広いメンザで、メニューも多い。昼食の後は ベルリン大学数学科の建物や数学図書室を偵察。午後のセッションは 18時前に終わり、大学の近くのレストランで夕食をとってから、 スーパーで炭酸入りのミネラルウオーターを買ってホテルに戻る。

研究集会第1日目の印象は、私の専門とちょっとかけ離れている研究集会の 割には面白く聞ける講演が多くて、なかなか良かった。昨夜ネットでデータベース を検索しまくって論文抄録を読み漁り、すこしばかり予習をしていったのも 功を奏した。また、論文などで名前を知ってるだけの数学者の顔もチェック したし。

参加者はホームページで「40名程度の参加者を予定している」と あったが、ちょうどそのぐらいの人数だった。ということは、もし参加希望者 がもっと多かったら、ロンドンや南フランスの研究集会のように 「お前はアホやから来なくてよろしい」みたいな話になったかも知れない(と、 今日の自虐ネタを一発ぶちかましておく)。

アジア系が私以外に4人居て、1人は某有名日本人数学者、もう一人は 名札に韓国と書いてあった。あとの二人も顔の表情や雰囲気からして コリアンだと思うが、どうだか知らない。いずれにせよ、 私は誰にも面が割れてないはずなので、謎の中国人のフリをして 静かに会場を漂っていた。

そういえば、メンザに行ったら中国人学生が「ニーハオ!」と挨拶 してきたし、別の中国系の学生が会釈してきた。中国人と間違えられたの だとすれば、オレさまの「謎の中国人のフリ」も板についてきたと喜ぶべきだろう けど、単に何かの間違いかもしれない。

ホテルに帰ってみたら、ルームサービスのクリーニングの様子がどうも おかしい。シーツやタオル、洗面台で使ったコップなども、 全部そのままである。フロントに問い合わせて初 めてわかったのだが、シーツやタオルは2日に1回取り換えるのが原則で、 タオルなどが特に汚れた場合は床に捨ててあれば取り換えるのだそうだ。

そういえば、14年前にスウェーデンに出張した時に泊まったホテルには、 そのような注意書きが書いてあったな。エコロジーのためにそうするとあった。 8年ぐらい前にイタリアに出張した時のホテルは、どうだったか覚えていない。

ヨーロッパは昔から水資源が乏しいので、バスタブで風呂に入ることは 少ないと、どこかで読んだ覚えがある。エコロジーということもあるのかも 知れないが、元々水が貴重だから風呂や洗濯を控えめにするのだろう。 日本と違って山が少ないから広い土地にゆったり住むことがえきる 反面、山が少ない分、川も少ないので、水の確保には苦労するという ことだと思う。

2010年11月28日(日)
<<高度な研究技法>>
7時半起きして色々準備して9時過ぎにゲストハウスを出て、荷物が重いので バスでオスナブリュック中央駅へ。電車は20分以上遅れ、ベルリン着は 14時前。それからSバーン(ローカル線)やUバーン(地下鉄)を乗り継いで、 ベルリン自由大学のあるダーレン・ドルフへ。 ベルリン中央駅前は梅田駅間みたいな都会だが、 こちらは立派に田舎である。

ホテルはドイツの色々な大学の来客用ホテルのチェーン店のようだ。 大き目の机と電気スタンド、研究集会参加者は無料で無線LANが使える。 窓は全面ガラス張り。広々とした最新型のホテルで快適。 しかし、やはりヨーロッパのホテルらしく、部屋履き、歯ブラシ、髭剃り、 シャワートイレ、バスタブは無く、広いバスルームにはゆったりとした 洗面所と、これまたパリのホテルの3倍の広さはあるゆったりとしたシャワールーム がある。シャワールームが一部開放型になっていて、余程気をつけないと 水が外に流れ出す仕組みになっているところも、パリのホテルと基本的に同じである。

ホテルの近くのレストランで、夕食とも昼食ともつかないものを しっかりと食べ、日曜日でスーパーなどは閉まっているので、ガソリンスタンド (ドイツにはコンビニがないので、ガソリンスタンドがミニ・コンビニ のようになっている)で水と菓子パンのようなものを買って、夜食とする。

明日から研究集会。参加者は40名程度というから、かなりこじんまりして いる。日本人なら、たとえば3,4人で食事に出掛け、そのうちの一人が外国人 なら、皆が無理して英語で話して、その外国人が会話に取り残されないように 気を使う。しかし、ドイツ人がそういう気遣いをすることは皆無である。言葉 のわからない外国人を取り残して、何時間でも自分たちだけで好き勝手にお喋 りして楽しんでいる。このことと、英語が公用語の研究集会とでは事情が違う が、まあ、40人も居れば気配を殺して座敷童することは十分可能である。

私の理想は静かに数学をすることであが、数学研究の現場はどうも そういうことにはなっておらず、数学者という厄介な人種と関わり会わ ねばならないことが多い。技術系の研究開発だと、実際にモノを作るとか、 実験を進めるとかの作業的なことが多くなり、作業打ち合わせという形 で淡々と話が進むようなところがあるが、数学者の共同作業は自由度が大きく、 それぞれの個性がぶつかり合うだけに面倒なことも起こりやすいと思う。

まあ、研究集会の講演を聞いて、興味があれば講師に2,3質問をしてみる というとろこまでは、私としてはぎりぎりセーフ。さらに進んで、適当な相手 を選んで「数学の話をする」とか、公表前の論文や論文の草稿を交換するとい った高度な研究技法に手を出すと色々無理がでてくる。「こんなの当たり前で しょ!?」と睨みつけられたり、ちゃんと「結構な御点前で」と賛辞を述べたの に嫌な顔をされたり、勝手に論文草稿を送りつけて盗人呼ばわりする悪徳押売り 商法まがいの話に巻き込まれたり、とにかく碌なことはない。

今回のドイツ留学も、日本の大学のあれやこれやから離れ、静かに一人数学 を勉強したり考えたりしようと画策したのだが、なかなかそうは問屋が卸さなない。 「お前、そんな所に行って”話し相手”は居るのか?」とか、 「貴殿がこちらに来られても”話し相手”は居ない」と思います、 みたいなことで駄目だと言われる。全く五月蠅いなあ。唯そこに居て黙ってる だけじゃあ駄目なんかよ?!言っただろう、俺サマは人と話するの大嫌いなん だって!そんなわけで、外留するにあたって、こちらの滞在先を見つけるのは、 ちょっと苦労した。

でも、そうは言っても大体最初思い描いていたような感じになってきたな。 一人でパリやベルリンやエディンバラやエッセンを飛び回って、気配を殺して 講演を聞き、ドイツの美しい街を散策しながら思索にふける。日本のことを 思えば格安家賃の広々としたゲストハウスに住み、腹が減ったらメンザがある。 本が見たけりゃ図書館がある。最高じゃん、、、と、あっ、 嗚呼、突撃インタビューのことをすっかり忘れてた。偉い先生に会わなきゃ ならないんだった、、、、。ま、ベルリンとエディンバラに居る間は忘れてよう。 その後は、クリスマスだからとか、正月だからとか、あ、もう日本に帰らなきゃ ならないからetc.と色々理由をつけて、「また、盆と正月が重なった時に考えます」 ってことにしたいけど、、、そうも行かんだろうしね。

2010年11月27日(土)
<<結構な御点前で>>
午前中はゲストハウスで数学。偉い先生の論文の謎が1つだけ解ける。 ところで、昨日は大先生の黙殺の話を書いたが、経験的に言って黙殺 する人よりも、「これはナントカだから、そうなるでしょ?」 みたいな事をぱらぱらっと言って、ぐっと睨みつけるケースの方が多いような 気がする。 黙殺されるのと睨みつけられるのと、どちらがいいかというと、そりゃあ どちらも嫌である。

午後は旧市街に出る。来週のベルリンの天気予報によれば、最高気温 マイナス2度最低気温マイナス8度なんて日もあり、それ以外の日も似たような ものである。熱帯ニッポンに居ると、つい厚着し過ぎて暑くなることを 心配してしまうが、熱帯ならざるドイツの冬は寒さの次元が京都とは違うようだ。 オスナブリュックは午後12時現在でマイナス4度とか言ってた。

それで明日からのベルリン出張に備えて、まだ日本が熱帯化する 以前の小学生時代、母親に言われて無理やり履かされた時以来40ウン年ぶりに、 股引を履かねばなるまいと思うに至る。 急きょ股引を買うべく衣料品店やデパートを偵察し、結局股引2つ、毛糸の帽子 を1つ買った。昼食は、大きな衣料品専門デパートみたいな店の レストランで軽くすます。

買い物の帰りは大聖堂や市庁舎前マリエン教会で道草。静かに自分 と語りあう。教会前広場ではクリスマス市たけなわで、大勢いの人で 賑わっていた。マリエン教会の塔は、通常は日曜日の正午前後だけ 解放されるが、今の期間は夕方も解放されている。 私も上ってみたが、クリスマス市で賑わうオスナブリュックの夜景が美しい。

夜はベルリン出張の準備。しばらくゲストハウスを離れるので、 冷蔵庫の中身をできるだけ減らそうと無理して、夕食はちょっと食べ過ぎ気味。

さて、数学者社会の奇妙な風習の一つとして、公表前の論文を関係者に 送って意見を求めるというのがある。大先生にもなると色々な人から 論文が送られてきて某大な数になるらしく、それを全部読むのは 不可能だから、「ある時から、公平を期して、そういうものは一切読 まないことにしました」という話を聞いたことがある。

大先生に限らず、信頼する数学者の友人に公表前の論文を見せるこ とはよく行われているようである。もしかしたら、「お前、論文を書 いていると言ってたくせに、俺に見せる前にプレプリントサーバーに 投稿したのはけしからん。俺はちゃんと公表前のをお前に見せたじゃないか!」 みたいな話で揉めるようなことも、あるのかも知れない。いや、なんで そういう話になるのか私は理解してないのだけど、現象としてそういう ことがありそうな気がする。

私自身の経験でも、2,3度論文をもらったことがあり、さらっと 見て「ふーん、賢い人は色々なことを考えるんやね」とひとしきり感心 して放置しておくと、しばらくして「どうでしたか?」みたいな聞かれ 方をする。どうでしたかも何も、「結構な御点前でございます」としか 答えようがないのだけど、何故か相手は不満げな顔をする。

酷い例では、勝手に公表前の論文草稿を送りつけてきて、 「え?それが何なの?」と思っていたら、しばらくして自分達の研究成果を 横取りしたなどと言いがかりをつけてきた輩もいる。 さすがの私もこれには激怒して、「ふざけるな!」と激しく抗議した。

かく言う私も、1度だけ論文を見てもらったことがある。 大先生に「君、その論文は一度誰か専門家に見てもらいなさい」 と言われてたので、何のことやらわからず別の大先生に 「某大先生から『一度専門家に見てもらいなさい』と言われましたので」 と、まるでガキの遣いのような形で見てもらったのである。 勿論相手の大先生は数学者社会の風習を熟知しているので、 それらしき丁寧な返事が返ってきたけれど、「これは一体何の やりとりなの?」という疑問は残ったままである。

まあ、どういう意図があってのことか私にはわからないけど、 自分の仕事を知人に直接見せて「どうですか?」と尋ねる神経は、 私には無い。断じて、無い!

「どうですか?」と聞いて、面と向かって 「最低ですね」とか「ほとんど無意味な仕事ですね」とか「残念ながら深刻 な間違いがありますね」とか、あるいは、そういう事を言いたいの だけど言わまいとして、もってまわった微妙な言い回しをされるとか、 そういうのだったらどうするのよ?私だったら、もう立ち直れなく なるね、きっと。そういう事態を正面から受け止められる強い神経 の持ち主か、よほどの楽天家か自信家でもないかぎり、「どうですか?」 なんて聞けっこない。

私も最初からそうだったわけではなく、学生時代は結構楽天的で 神経が太い方だった。それで演習やゼミでボケをぶちかまして先生に 吊るし上げられてもへらへらしてた。でも、数学者ってのはマジだから、 ボケかましても笑いが取れるどころか、 徹底的に締め上げられる(全く冗談の通じない連中だ!)。

締め上げられたぐらいでオリコーさんになれるほど人間はうまい具合 には出来てないので、へらへらしてるしかない。そうするとますます激し く締め上げられる。そこには、ほとんど憎しみとも言うべきものが 籠っている。え?何で、オレ、そんなに 嫌われなきゃならないの?アホが生きてちゃあ駄目ですか?と。

で、大学を卒業するころには、すっかり数学者恐怖症になって、 それが30年後の今でも全然治ってない。だから論文を書いたら、 そのまま査読審査付きの雑誌に投稿し、匿名の査読者にばっさりやって もらうことにしている。

論文の評価という意味では、学術雑誌などに投稿すれば然るべき 査読審査がある。研究成果はプレプリントサーバなり学術雑誌なり 研究集会会議碌なりで然るべく公表される。それ以外の水面下で、 皆さん何を一体こそこそとやってるのかしら?と。 しかし、この水面下の活動が数学の全体の研究活動の中で大きな位置を占めて いることは確かなような気がするが、上記の理由で私はそういことにうまく 乗っかることができない。数学的に育ちの悪い人間が無理して数学していると、 こういうところで色々苦労するのである。と、今日の自虐ネタは、これでおしまい。

ベルリンには一応PCを持っていくので、明日以後も たぶん日誌も更新できるかなと期待している。 12月3日の夜にはオスナブリュックに戻る予定。

2010年11月26日(金)
<<危機管理対策>>
午前中はゲストハウスで洗濯と少し数学。昼にメンザに昼食を食べに行き、 その帰りにスーパーで少し買い物などをして、すぐにゲストハウスに戻り、 愚図愚図と数学。偉い先生の昔の論文と格闘するも、要所要所でハイパー な議論を展開するので、一向にわからない。

こういう時はその偉い先生に直接聞けば良いのかどうかは不明 である。ずっと昔、某偉い先生の論文のある部分がどうしても わからなくて、一応顔見知りの間柄でもあったので質問のメールを 出したところ、全くなしのつぶて。研究集会で顔を合わせても知らん顔。 どうやらわざとそうしてたようだ。 後で分かったことだが、その先生は自分の研究の得にならないことは徹底的 かつ露骨に無視する人であった。そして私の質問は、その分野の基礎を しっかり勉強すればおのずと分かることだということも、やはり後に なって分かった。だから、大先生に変な質問をして申し訳ないとは思ったけれど、 それにしても黙殺するとは、つくづく嫌なことをするものだ 思ったことも確かである。

数学者が皆そんな感じでは決してないが、間抜け質問であることが 自分でわからずに大先生に聞いてしまい、嫌な扱いを受けるのもたまらん話である。 いかにも取っつきの悪そうな人に恐る恐る質問したら、とても親切に 教えてくれたってことも十分ありうるけど、表面上はにこにこしてても、 実はとても嫌な奴だったことが質問してみて初めてわかり、 激しく幻滅するってことも十分ありうる。 そんな嫌な目にあうリスクをおかすぐらいなら、もうちょっと 愚図愚図考えてみよう、ということになるわけである。

オスナブリュックはもう最低気温がマイナス2、3度で最高気温が1度、 みたいな日が続いていて、今日の午後は小雪がちらついていた。 外に出ると流石に寒いが、風がないせいか、しばらく歩いているとそれほど 寒いという感じがしない。もっとも長めのマフラーをぐるぐる巻きにして 歩いていたけど。

夜はちょっと市庁舎前広場のWeihnachtsmarkt(クリスマス市)でも 見に行こうかとも思ったが、昨日のレセプションの前に一通り見て回った から、まあいいだろうということで、結局行かず。クリスマス市はなかなか 雰囲気モノだから一度は見ておくべきだけど、クリスマスの飾りとかローソクとか、 日本人にとってはどうでも良いものばかり売っているし、軽食の類もこちらに 居ればいつでも食べられるものがほとんどなので、 あまり有難味を感じないのである。

夕方遅くにベルリンとエディンバラからメールが届いた。ベルリンは 寒いから、来週からの研究集会の参加者はマイナス6度ぐらいを想定して 万全の装備をして来られたし、と。エディンバラの方は、こちらの参加予定 日程の最終確認と、会場変更の案内などの内容であった。ああ、何だか、人と して一応の敬意をもってちゃんと扱ってもらってるって感じ。数学業界に居ると、 こういうことの有難さが身に沁みるんだよね。と、今日も自虐ネタを一発 ぶちかましておく。

今日は数学の合間に、B先生が これから参加する国際研究集会を、ネットで検索しまくって色々調査。 某研究集会の参加予定者リストが見つかったので、その中の日本人 数学者を詳しく精査し、この日誌を読んでそうな人を割り出す。

勿論これは、先日のように、B先生がどこかの国際研究集会に出掛けて、 そこで日本人数学者から中途半端なことを小耳にはさんで帰ってきて、 それがもとで色々揉めるような事態の可能性を想定した危機管理対策である。 一応背景の事実関係について、あらかじめ情報を集めて心の準備をして おく方が、いざという時の対応がしやすいかと思って。

2010年11月25日(木)
<<完敗>>
午前中はゲストハウスで数学。昼過ぎ、腹が減ったので大学のメンザへ。 昼食の後、同じ建物にある数学図書室で調べ物。数学専門書が置いてある 階は、どうもいつも私語が五月蠅く、そのうち一度どやしつけてやろうかしら と思っていたのだが、どうやら先生かそれに準じる立場の人が、図書館で 学部学生の勉強の面倒を見ているらしいことが分かった。

まあ、必要な参考書が手元にあるから教えやすいのであろう。大学として 組織的に図書館でべちゃべちゃ喋りまくることを奨励しているとなれば、 どやしつけるわけにはいかんな、と。ま、ドイツですからね、何があっても おかしくないけど。これが日本だったらタダじゃあ済まんぞ。「お前、先生 の立場のくせに何やってんねん!」ってしばき倒してやる。

調べ物が終わったら、夜の「レセプション」がある市庁舎平和の間の事前偵察。 その足でNeumarktのSaturnに行きCDを物色。特にこれといったものは 見つからずに帰宅。

SaturnでもKaufhofでもEssennのMayersche書店でも、CDの店頭展示の 仕方はまさに出鱈目の一言である。ただ何となく出鱈目に並べてあるだけで、 欲しいCDを捜したければ、結局店頭に置いてあるCDを片っ端から 全部見ていくしかない。しかも、書棚の本のように背表紙を並べるような形 なら良いが、そうではない。ちょっと説明しにくいが、書店で本が平積み されていて、しかもそれぞれの山に同じ本が積まれているのではなく、 てんでバラバラの本が平積みされている状態と本質的に同じだと思って良い。 要するに、「ただ置いてあるだけ」なのである。

こういう滅茶苦茶なことしかできないのは、要するに音楽の事に詳しい 専門のスタッフが居ないからである。Saturnは電機屋、Kaufhofはデパート、 そしてMayerscheは書店である。これらの店が、ジャズ、ポップス、クラシック あらゆるジャンルの音楽に精通しているスタッフを雇っているとは考えに くい。だから、どんなCDを仕入れればよいかもよくわかっていないらしく、 重要な演奏家や作曲家のCDがいくつも欠けたままに、ベートーベンと バッハとヘンデルとハイドンとその他ドイツで売り出し中の演奏家のCDばかり が漫然と置いてある。

暗然とした気分でゲストハウスに戻り、またしばらく数学。 それから18時から市庁舎で催される「レセプション」に向かう。 このレセプションの招待状には次のように書かれている。

Der Praesident der Universitaet Osnabrueck und der Oberbuegermeister der Stadt Osnabruedk laden Sie und Ihre Algehoerigen zu einen Empfang mit anschliessendem geselligen Beisammensein am Donnerstag, den 25. November 2010 um 18:00 Uhr in den Friedenssaal des Rathauses der Stadt Osnabrueck ein.

「オスナブリュック大学長とオスナブリュック市長は、 貴方と貴方の家族を、2010年11月25日木曜日の 18時からオスナブリュック市庁舎平和の間で開催される レセプションとその後にひき続き行われる社交的会合 にご招待いたします。」

よく読めば夕食を出すとは一言も書いてない。しかし 私は日本の習慣を無意識のうちに想定して、「夕飯時の18時 に人を呼びつけるからには、当然夕食を出すのだろう。 ずいぶん気前のいい話だけど、ま、行ってみるか」という 考えで出掛けたのである。今週末から2週間出張するので、 ゲストハウスの冷蔵庫の在庫の段取りなど色々考えながら。

しかし実際に行ってみると、「レセプション Empfang」とは、 市長と学長ならぬ副学長の「ドイツ的に長々とした」挨拶を 拝聴することであった。また、「引き続い行われる社交的会合 anschliessendem geselligen Beisammensein 」とは、 ゼクトとオレンジジュース、パンの上にサラミソーセージ かチーズを乗せた簡単なつまみ1、2切れだけで、 「皆さまどうぞ会話をお楽しみください」と会話の荒野に放りだされる ことであった。生じっかドイツ通を気取っていた私だが、 「ああ、そうか。その手があったか!」って感じ。 やられました。2000年のドイツテレコム事件以来の完敗です。 これがドイツなんだよな。すんまへん、よう知りませんで。

さて、市長の挨拶は、30年戦争終結のウエストファリア条約を結 んだ平和の間の話、第二次世界大戦で街じゅうが痛手を負った後、 皆が力を合わせて今日の繁栄を築いた話。平和友好のためには国際親善が 大切であり、オスナブリュック市では国際交流に特に力を入れているという 内容だと理解した(下手な英語通訳付きのドイツ語なので、あまりよくわからない)。 よろしい、そのことは既に理解している。立派な理念をもった、この素晴らしい 街の人々に敬意を表しようではないか。

また副学長の話は、オスナブリュック大学では研究者や学生 の交流という形で国際交流に力を入れているというような内容だ ったと思う。よろしい、それはおおいに結構なことだ。しかし、 「皆さま、ご自分の大学に帰られたら、学生や周りの人たちに、オ スナブリュック大学の印象や雰囲気をどんどん伝えて、国際交流 の促進に一役買っていただきたい」などと言われても、私は「オ スナブリュック大学数学教室のことは一切日誌に書くな」と言わ れているし、人と話をしない私が(メールを除いて)唯一言葉で何かを伝える手段が 封じられた状態では、「そんな事言われてもなあ」って感じ。残念 ならが副学長のご要望にはお応えできかねます。

この会合には、オスナブリュック大学に来ている2、30人の 客員研究員が招待されていたが、「各国から集まった皆さんが、 ここでお互いを知り、国際交流を深めてください」と挨拶を締め くくられても、私は困るのである。兎に角、こんな大広間で皆が立 ち話でわいわい言ってる中で、人と話をするなんてまっぴらである。 周りが騒々しくて相手の話は聞こえないし、話している途中で誰か が平気で割り込んでくるし、こんな十字砲火の中の地雷原を這い進 むような会話を好き好んでやるなんて、まさに西洋文化の悪しき伝統 と言わざるを得ない。

だいたい連中の「会話」の様子を見ていると、間というものが 無い。のべつまくなしに空々しい言葉で時空をべったり埋め尽く すような、野蛮なやりかたを好む。「黙れ!アホ!」 としか言いようがない。しかし、日本だと、お前ら知らん顔してたく せに、ちゃんとオレのこと見てやがったんだな!ってことがあるが、 西洋人の頭の中では「黙っている奴は存在してないのと同じ」だから、 座敷童するのは結構やりやすい。

それに言っとくけどね、そもそも私は人と話するの大嫌いだし、 ドイツ語勉強してるのは、ドイツ語で独り言言うためなの。 わかる?わかんない?ま、別にどうでもいいや。

と、いうことで、市長と副学長の挨拶が終わったら、早々に 平和の間を飛び出して、市庁舎の中をあちこち偵察して回り、 ひととおり見終わったらさっさと退散。帰宅して、「馬鹿野郎めが、 人を夕飯時に呼びつけておいて。ドイツだから許すけど、これが日本 だったらタダじゃあ済まんぞ!」と一人わめき散らしながら、 大急ぎで夕食を作って空腹を満たし、さらには「これが呑まずにおれようか!」 と、またぞろワインの激呑み。

2010年11月24日(水)
<<極東熱帯幾何学>>
今日は11時から1時間程度、B先生とセミナー。メンザで昼食の 後、ゲストハウスに戻って数学。夕方、17時15分からの数学コロキウムに 合わせて再び大学へ。

今日の講演は「熱帯幾何学 tropical geometry」に関連した話なので、 何で「熱帯」なのか質問してみた。「この名前は奇妙に聞こえるが、この新しい 幾何学の本質に、熱帯地方を思わせる何かが潜んでいるのか?」と。答えは、 南米の数学者が始めたから誰かがそう呼び始め、いつの間にか定着してし まったのであり、この幾何学の本質とは何ら関係はない、とのこと。

数学の一分野にこんないい加減な名前の付け方って、アリかよ?! この答えに激しく落胆した私は、思わず「ああ、そうなんですかあー (語尾を思いっきり下げて発音する)」と悲しげな日本語で叫んでしまい、 何故かそれが皆さんにウケて、大笑いになった。まあ、ウケれば何でもよろしい。

しかし、じゃあ日本人が新しい幾何学を始めたら、「サムライ幾何学」 とか「フジヤマ幾何学」とか「ハラキリ幾何学」とか「ゲイシャガール幾何学」 とか「スキヤキ幾何学」なんて名前がつけられるのかしら。そういう兆しが あるときは、日本数学会に頑張ってもらって断固食い止めてもらわねばならんと 思う。まあ、今や日本も十分熱帯化してるから、私としては 「極東熱帯幾何学 fareast tropical geometry」なら十分許すけど。

コロキウムの後は、外部から呼んだ講師を囲んでの夕食会。彼らの生態を探 るための偵察飛行の一環なので、私はノンアルコール。たっぷりドイツ語の ヒアリング練習をして21時頃にお開き。ゲストハウスに戻り、 これが呑まずにおれようか!とワインを激呑み。

ところで、前にも同じようなことを書いたけど、オレさまで自己チューな 私は、相手が聞いてないことまで喋ってしまって、聞き流されてしまうのが 大嫌い。だから、まずは聞かれたことだけに答えて相手の様子をうかがう習慣 が身についている。

例えば、私が電子辞書をいじくっていた時に、それに気づいた人が 「それは電子辞書か?」と聞いてきたとする。これは単なる質問かも知れ ないが、会話の切欠を作ろうとしているのかもしれない。 それに対して、「そうです。これは独日、日独、独独、独英、英独、さらには 英英、英和、和英も入ってます。液晶画面も綺麗でしょ? でも、私としては、独仏、仏独も入っていてほしい所ですが、それは無いです」 ぐらい答えれば会話が膨らむかもしれないが、相手がそこまでの返答を 求めていなかった時は、「そうですか」で軽くいなされてしまう。 そういう事態になるのは我慢ならないので、とりあえず「ええ」とだけしか 答えない。その先、相手が色々聞いてきたら、こいつは俺と話す気があるんだなと 判断して、すこしずつ答を長めにして膨らませていく戦略。しかし、「ええ」 以上に話が進んだことは、記憶する限りでは1度しかない。

また、すこし前までは、色々自分から相手に話かけることもあったけれど、 或時ふと、これまで自分から話しかけてばかりだったけど、向こうから 話しかけてくることってあるのかしら?と疑問に思い、極秘実験を 始めた。この実験は日本でも色々な状況で行ってみたし、こちらに来てからは ドイツ人との付き合いの中で何度も試しているが、人間のリアクションは誰でも 大体同じで、稀に向こうから話しかけててきても「ええ」とか「そうでもないです」 みたいな答だけしかしないでいると、誰も話しかけてこなくなるものである。

え?そんなことは当たり前だって?まあ、数年前までは私も知ってた ような気がするけど、脳が歪んでからは、そういう当たり前のことが分からなく なってしまったのかもね。

それにしても、オレさまに話しかけてこないのは、オレさまに関心が無いと いうことであり、オレさまに関心が無いような輩にこちらから話かけてやる必要 などあるものかという考え方は、自己チューでおナルな私の中ではかなり強固 である。さらに、こいつ、オレさまに話しかけてきたけど、こんな奴がオレさま に関心があるわけがないから適当にあしらっておけ、みたいな事をするから、 益々話がややこしくなる。

2010年11月23日(火)
<<リアクション問題>>
午前中はゲストハウスで数学。昼過ぎ、腹が減ったので大学のメンザに出掛け、 昼食後すぐに大学を発ち、スーパーで買い物をしたり、旧市街の郵便局に郵便 を出しに行ったりしてからゲストハウスに戻り、また少し数学。16時15分 から大学院のセミナーがあるので、それに合わせて大学に行き、1時間ほどの 講演の後さっさとゲストハウスに戻ろうと思っていたが、色々あって外部から 呼んだ講師の先生を囲む夕食会に出ることに。ノンアルコールの夕食会から 20時過ぎに戻り、ワインをちびちびやりながら、また少しだけ数学(の予定)。

ところで、11月初旬にヨーロッパの某所で秘密国際研究集会 ーー実際、どういう意図があってのことか、昨今の数学の国際研究集会には 珍しく、ネットでどんなに検索してもほとんど情報が得られないが、何年かして 会議録が出版される(こともある?)ようであるーーが開かれ、そこに参加 していた日本人数学者から、この日誌のことがB先生に伝わったそう である。

そのこと自体は何ら問題はない。別にB先生の悪口を書いている わけではなく、彼のことについても、時に皮肉っぽい表現に走りながらも、 愛と敬意に満ちたことしか書いてないからである。

しかし、その日本人数学者がどういう意図で私の日誌のどの部分をどう 英訳したのか不明だが、結局それが原因であらぬ誤解が生じたようで、しばらく 前に私とB先生との間で「すこし厳しい」やりとりがあった。

まあ、ネットの文書は、仮にそれ自身がいかに適切に書かれていても、 (意図的かどうかは別として)部分的な引用や誤訳、あるいは 表面的な文章読解によって原文とはまったく違うニュアンスに受け取れる ことはありうる。それによって当事者が誤解して傷つくことは、重大な事態として 重く受け止めなければならない。

結局、今後オスナブリュック大学数学科の人たちのこと については一切書かない、過去の記述については全て削除するということで 話が纏まった。

ということなので、その手の業界情報収集のためにこの日誌を読んでおられた 業界人の皆さまに対しては、しばらく前からそうだけど、今後も一切ご期待には沿 えませんので、悪しからずご了承されたし。

それにしても、「オジサンは嫌いだ!」ネタが尽きた今、新たな切り札だった B先生ネタが使えないとなると、あとはドイツの街で見聞きしたどうって こともない話とか、散々な悪評にもかかわらず時々復活するクラシック音楽ネタとか。 あるいは、ネタに困ったら自分を苛めて遊んでよう かということで、最近売り出し中の(新)自虐ネタとか。 まあ、それぐらいしか書くことがないな。困ったものだ。

ではまず自虐ネタから。まあ、同業者がこの日誌を読んでいてB 先生に英訳サービスまでしていたとは恐れ入った。ただし、ここで「同業者」 というのは、私のアホぶりを正確に理解できる可換環論業界関係者に限定して 使い、数学関係者全般は「業界人」と区別してつかっているけど。

最近の私のお気に入りである「お前ら、どうせ俺の事、アホだと思ってるん だろう!」的自虐「私」観に立てば、次のようにも言える。「だいたいアホの 書いた日誌を、よく読んだり英訳したりする気になれるものだ。人間は常に高 みを目指すべきであって、秘密国際会議に招待されるほどの立派な数学者が、 アホの高山がアホな事を書いているのを見下す悦びに耽っているとすれば、 『それは驚くべきことである!』と言わざるを得ない」、と。

まあ、ごく稀に「私、実は高山さんの日誌、読んでます」とカミングアウト する同業者が現れて、素直に「ありがとう」と言うのも日頃の私のスタンスと 齟齬をきたすし、かと言って「ええ?!!貴方、そういことではいかんでぇ。 数学者としてペケやで。もっとしっかりしてくれや」と説教するわけにもいか ず、どういうリアクションをすれば良いのか困ってしまう。この「リアクション 問題」は未解決のままだが、同業者の読者層はごく僅少と見て、あまりまじめに 考えおらず、玉虫色のリアクションで誤魔化すことにしている。

次は街ネタで行こうか。夕食会で某レストランに行ったら、後からちょっと 気取った40男と30女のペアが入ってきた。40男は妙に顔が赤い。 私は別のとこで顔の赤いドイツ人の40男を知っているが、 酒を飲んでいるわけでもないに あの赤い顔は大丈夫か?と他人事ながら心配になる。

料理の注文をしたら、すぐに男はトイレに立ち、女はiPhoneをいじくり始めた。 男が帰ってきた頃には既に飲み物が出され、まもなく料理も運ばれてきたが、 女はiPhoneいじりをやめない。ようやく女がiPhoneいじりをやめて、二人が ひとことふたこと言葉を交わしたかと思うと、今度は男の方のiPhoneが鳴って 男が電話の先の人間と話し始める。男はiPoneを手放さず、話を適当に切り上げ ようとする素振りもなく延々と話ていて、話ながらすこしずつだが料理を食べて いる。その間、女は黙々と料理を食べてほとんど食べ終わっていた。 それでもまだ男はずっとiPhoneで話している。

こいつら、一体何なんだろうな?と思って、ずうっと見てたのだが、 結局分からなかった。最後まで見届けてやろうと思ってたのだが、夕食会は お開きということで後ろ髪惹かれる思いで店を出た。だから人と一緒に食事するの、 嫌なんだよな、と。ま、これはこれだけの話。どうってことないでしょ?

2010年11月22日(月)
<<物乞いはお嫌い?>>
掃除の日である。8時起床、色々準備して9時きっかりに ゲストハウスを出て旧市街方面へ。まずは銀行で家賃を振り込み、 さらに書店でエディンバラの旅行ガイド本を買い、 その足でNeumarktに繰り出し、そこの銀行で生活費を下ろしてから Saturnで買い物。

何故家賃を振り込んだ銀行で生活費を下ろさなかったのかという と、要するに1回に下ろせる金額に上限があって、その上限は銀行に よってまちまちで、さらに1回下ろすごとに(下ろした金額にかかわらず) 定額の手数料が取られるからである。

旧市街ではクリスマス市(Weihnachstmarkt)の準備が進んでいた。 歩行者天国の大通りの真ん中に、いつの間にか巨大なクリスマスツリー 用の木が立てられ、30年戦争終結のウェストファリア条約ゆかりの 市庁舎前広場では、屋台の準備が進んでいた。オスナブリュック中央 駅前はそれほど繁華街という感じでもないが、それでも昨夜パリから 帰ってきたときには、駅の入り口の両際にクリスマス市っぽい屋台が 2,3軒できていて、ちょっぴり雰囲気を盛り上げていた。

エッセンは駅前がもう繁華街なこともあって、昨日の夜電車で通ったら、 駅前には綺麗なイリュミネーションが出来ていた。来週ベルリンに出張 した時には、ベルリンのクリスマス市でも見てこようか。

途中、カトリックの聖ペーター大聖堂と新教のマリオン教会で道草。 大聖堂の中は、磔にされるキリストの物語を描いたレリーフや彫刻、絵画で満 ち溢れていて重々しい雰囲気を醸し出しているが、マリオン教会の中には そういうものもなく、さっぱりした感じである。これがカトリック とルター派の本質的な違いを象徴しているのかどうかは知らない。

いずれにしても教会というのは誰でも自由に入れて、 数学の国際研究集会みたいに「お前は招待されてないから来てはいかん」式の 意地悪な事は言わないし、 その辺の数学者みたいに「馬鹿のお前の相手をするのは時間の無駄だ」みたいなこと も言わないし、 2回ボケをかますと一気に態度が冷たくなるようなこともない。 神様は馬鹿でも脳が歪んでいても すべてを大きな愛で等しく受け入れてくれるんだそうだし、 数学者の世界と違って静かで落ち着けて、とてもいい所である。

ところで、オスナブリュックとミュンスターとケルンの教会を偵察 した限りでは、ドイツの教会は長椅子が原則で、前にひざまづいてお祈りするための 膝置き台のようなものが設置されている。しかしフランスはそうでもないらしく、 ノートルダム寺院でもパリの街中にあった小さな教会でも、一人用の小さな 椅子が並べられていた。ひざまづいてお祈りするようには出来ていない。 この違い、とくにフランスの教会がどこでも上記のようになっているかどうか については、さらなる調査が必要であろう。

それから、ドイツでは物乞いが非常に多いが、パリでもオスナブリュック やエッセンに負けないぐらい沢山の物乞いが居た。オスナブリュックでは、 常連、飛び入りと色々な物乞いが居るが、常連の中には私が秘かに「哲学者」 と呼んでいる物乞いのオジサンがいて、大体歩行者天国のある店の角に座って 細かい字の本に読みふけっていることが多いが、日曜日の午前中などは教会の 入り口のところでよく見かける。簡易椅子や防寒用の毛布、寝袋など、装備は しっかりしていて、後ろで綺麗に束ねた長めの白髪混じりの髪と髭、眼鏡とい う風貌は、真実を厳しく追及する哲学者のそれのようである。パリで一度見た、 物乞いではないけど、ホームレス風の人は近くを通っただけでも猛烈な悪臭が したが、「哲学者」はいつもこざっぱりしている。そういえばパリでは、 若い男女が物乞いをしていたが、彼らはどう見ても何かの理由で旅費が底を ついた旅行者って感じだったな。

かように物乞いが多いのは、それなりに収益があって生業として 成り立っていくからに違いない。物乞いを恥と思ったり物乞いを蔑んだ りすることも、日本よりもうんと少ないと思われる。日本のホームレスは 物乞いよりも餓死を選ぶようだし、例え物乞いをしても誰も御恵みなど与 えないし、むしろ中高生に暴行されるという死の危険さえある。中高生の 暴行は大人の潜在意識の反映だから、まあ、皆さん物乞いやホームレスに は冷たいのである。この違いは何なのでしょう。キリスト教の影響? でも、たぶんアメリカ合衆国などは日本と同じで、物乞いやホームレス に冷たいんじゃないかな。いや、アメリカは嫌いだから、23年前に 一度行ったっきりで、今後も行く積りはないから、よく知らないけどね。

私は物乞いはある種人間の原初的な姿だと思ってて、 別に嫌悪感は無いけど、彼らが差し出すコップに小銭を入れようという気 にはなれない。ああ、俺って、やっぱり日本文化しょって生きてるんだなと 痛感する一瞬である。

昼前に旧市街から戻ってきて、そのまま大学へ。流石にパリで 3日間歩き倒した疲れが足に残っていて、緩やかな山道を登っていく 感じの大学までの道がちとしんどい。こちらに来てからは、 少なくとも土日は偵察飛行と称して一日4,5時間はその辺を歩き まわっているので、足腰はナマっていないはずなんだけど。

研究室でエディンバラ出張関係の雑用をしてからメンザで昼食。 午後は久しぶりにBプロジェクト。夕方ゲストハウスに戻ったら、 部屋は綺麗に掃除され、さらには照明器具が新しいのに取り変わっていて、 カーテンの故障も修理されていた。ただ、その作業のために色々な人が 出入りしているうちに、誰かがうっかり鍵を掛け忘れたのか、帰宅した時 に鍵が開いていたのには一瞬ぎょっとした。

2010年11月21日(日)
<<休息日>>
午前中はこの近辺で唯一日曜日に開いているスーパーで色々買い物。 パリ出張から帰ったばかりだし、来週末からベルリン、エディンバラと 立て続けに出張する予定なので、今日の定例偵察飛行は取りやめて、 午後はずっとゲストハウスですごす。

食事はスーパーで買ってきた 半乾燥レンズ豆と冷蔵庫に残っていた野菜、ソーセージを使って レンズ豆煮込み鍋(Linseneintopf)を作って昼も夜も食べた。 夜はちょっと変化をつけようと、卵を落としてみた。こういうのは たぶん日本料理的発想で、ドイツ料理で「卵を落とす」とか「卵でとじる」 というのは無いかもしれない。

ベルリンとエディンバラ出張の行程や場所などを色々調べたり確認したり しているうちに、夕方になってしまった。パリは電車で6時間かかったけど、 ベルリンは3時間ちょっと。ベルリン中央駅からベルリン自由大学まで 結構遠そうだけど、SバーンやUバーンを乗り継げば数10分でたどり つける。

研究集会のスケジュールは、朝から夕方まで講演がびっしり詰ま っている。専門家たちの勉強会のような集会だから、目下のところ 何の専門家でもない状態の私には結構キツそう。2日目の夜は懇親会があり、 出欠を早く知らせよとのメールが来ていた。懇親会で懇親できるぐらいなら 誰も苦労しないのである。日本の研究集会なら瞬殺却下だが、ベルリンの レストランに連れていってもらえるなら、それだけでも元がとれると 「参加希望」のメールを返しておく。

エディンバラの研究集会は少し情報が錯綜していて、会場が何処なのか、 向こうで手配してもらったホテルが何処なのか、ちょっとわかりづらい。 会場は数十メートル離れた2つの施設のどちらかであることが判明したし、 ホテルの場所も大体わかった。あとはそこにどうやって行けばよいかだが、 案内メールには空港からナントカバスに乗って何処でおり、そこから2分 歩いて別の所に行き、そこから何番のバスに乗って云々と面倒なことが書 いてある。しょうがないので、Googleストリートビューで見てみたが やはりはっきりしない。

しかしストリートビューで見たエディンバラの街は、21年前に出張 した時の雰囲気がそのまま残っていて、「ああ、そういえばこんな 街だったな」と懐かしい気持ちになった。懐かしければ全てを思い出せる わけではないが、懐かしいと、それだけで「兎に角現地に行けば何とかなる だろう」と気が大きくなる。気が大きくなったところで、出張準備は完了。

今でもそうかも知れないが、20年前、エディンバラ大学は理論計算機科学 で世界の最先端を突っ走っていて、世界中の専門家達は「エディンバラ の連中が今何を考えているか?」を知りたがっていた。私も1996年に半 年間のサバティカルが認められた時に、滞在先としてエディンバラ大学も考 えた。しかし、当時既に数学に転向する決心をしていたので、京大数理研に机を 借りて毎日朝から晩まで数学の基礎を勉強しなおすことにしたのである。 それから10数年後にエディンバラを訪ねることになるとは、ちょっと予想 してなかったな。

2010年11月20日(土)
<<パリから帰還>>
20時頃、無事オスナブリュックのゲストハウスに戻る。前からよく名前 を聞いていたけど、実態がよくわからなかったJussieu数学研究所の様子を 偵察出来たし、エッセン時代に一緒だった人が偉くなって難しいことを研究 していることも分かったし、数学的にも色々勉強になった。その合間にパリ の街を歩き倒したし、夜にはオペラも見たし、帰りの電車の乗り継ぎの合間 が1時間ほどあったので、駆け足ではあったけど10年ぶりにケルンの大 聖堂を見学した。とても充実した楽しい出張であった。

今日の昼食はパリ北駅近辺の店でドナーケバプ。 独仏のケバプの比較がしたくてパリで1度は食べてみようt 思っていたのだ。調査の結果、フランスのケバプはドイツのように 塩辛くなかった。3日間色々食べてみた限りでは、 フランスの料理はどれもあまり塩辛くないので、よろしい。

ドイツは何処に行ってもトイレは有料だが、パリでは全自動洗浄装置付きの 公衆トイレが無料だった。この自動トイレは20年以上前にフランスに行った 頃には既にあちこちで設置され始めており、私はパリではなくナンシーの公園 で使ってみたが、その時は有料だった。それが今や全て無料化され、昨日入っ たデパートのトイレも無料。ドイツもちったあパリを見習ったらどうだい! あちこちにある清潔なトイレが無料で使えて、街歩きが楽しく、「また行って みようかな」と観光客や買い物客が集まり、商売繁盛。税収も増えて、無料 トイレのメンテナンス料も軽く賄える。ドイツの石頭どもにはこの原理が わからぬか?と。

しかしパリ北駅のトイレは70セントで、エッセンやオスナブリュ ックと同じ。いけませんねえ。パリ北駅はドイツに繋がってるせいか、ドイツ文明 の悪しき伝統に毒されてますね。

と、思っていたら、帰りの電車の乗り継ぎで1時間ほど滞在したケルンの トイレは、なんと1ユーロ!オスナブリュック大聖堂前の全自動トイレは 20セント、オスナブリュックやミュンスターの教会前の管理人さんが 居る有人有料地下トイレは1回50セント、Kaufhofの「ダンケショーン」の 係員が居る有料トイレは値段は任意だけど私は1回25セント以上払ったことがない。 オスナブリュック市庁舎前の市立図書館のトイレが20セントぐらいだったかな。 エッセンに最近できた巨大ショッピングビルのトイレも50セントだか70セント だった。なのに、ケルン駅のトイレは1ユーロ!!何ですか、この人の弱みに 付け込む高飛車な価格設定は?!

トイレの近くで何故かメキシカンハットを被って、ビールをしこたま飲んで 完全に出来かがって騒いでいた数人の若者達も入ってきて、「ウァオゥ! おしっこだけで1ユーロだと!?」「1ユーロのおしっこ!」 「おしっこに入るのに1ユーロ。でもおしっこして出るのは無料だと! なーんでだ?!」と大声で馬鹿言ってたのが可笑 しかった。そうだ、そうだ!もっと騒いでやれ!

さて、計算機業界は数学業界と違ってうんとオープンなので、国際会議 などでの論文発表は公募制が原則。だから、あちこちの会議に投稿して受理 されれば海外出張ができた。しかし数学の場合、国際会議は招待講演が中心 の仲間うちの会合。私は碌な研究をしていない上に、コネづくりには不熱心 な上に数学者嫌い、1つの分野でやっと少しは認められるようになったかと 思うと、すぐに飽きて違う分野に行ってしまうので、数学の国際会議発表で 海外出張するのは、1月のハノイが最初(もしかしたら最後)。だから、 最近海外のホテル事情にはかなり疎くなった。過去2回のドイツ滞在も、 ホテルではなくアパートを借りてたし。

だから、パリのホテルには驚いた。歯ブラシや髭剃りなどのアメニティーセット も室内履きのスリッパもパジャマも無い。もっと驚いたのは、風呂はシャワーだけ で、それだけではまだ驚かないけれど、狭いシャワールームの囲いが一部しか無い! これは何を意味するかというと、余程注意してシャワーを使っても囲いがない部分 から水の飛沫が散って、バスルームの床が水浸しになることは避けられない。 勿論、シャワートイレなんていう気のきいたものは無い。大体東京都心部で 3000〜4000円ぐらいのホテルがこんな感じではなかろうか。 否、日本のホテルはどんなに安い所でも兎に角上記のものが(シャワートイレ を除いて?)一応全て揃っているはずだ。しかし料金は日本円で9000円程度。 そういえば20年前に泊まったパリのホテルも、1泊 1万円以上するのに、狭い屋根裏部屋で、シャワーだけだったな。

たぶんパリの中級ホテルはこんなものなんだろうと思う。まあ1日目は 流石にびっくりしたけど、翌日スーパーで2ユーロのゴム草履を買って室内履にし、 歯ブラシはたまたまいつも鞄に入れて持ち歩いていたものを使ったし、パジャマや 髭剃りも出発の朝にふと気になって何となく旅行鞄に詰め込んたものが使えた。 そうすると特に不便でもなく、むしろ掃除は綺麗に生き届いているし、 朝食は美味しいし、チェックアウトの時間は日本のシティーホテル並みの12時 だし、家族的経営で従業員の人たちはとても感じがいいし、2日目からは結構快適 に過ごした。ドイツに居る間にまたパリに出張することがあったら、 このホテルにしようかと思う。

それから、行きも帰りもパリからオランダ、あるいはケルンの間を 結ぶ高速鉄道Thalysというのに乗ったが、座席そのものは快適だけど、 座席の前後の幅が狭く、さらには狭い車幅に幅の広めの座席を 4列(2等車)とっているため、通路が異様に狭く、列車の乗降は勿論 のこと、トイレに行く時でも狭くて苦労する。帰りのThalysはトイレの 手洗いの水が出なかった。ま、トイレやドアが壊れたままで走ってるのは、 ヨーロッパの列車にはありがちなことだろうけど。

帰宅後、冷蔵庫に残っていたものをかき集めて夕食、そして貯まりに 貯まった洗濯などで、深夜までごぞごそする。

2010年11月19日(金)
<<わけがわからない>>
午前中はシテ島のノートルダム寺院に行き、そのついでにパリ大学や コーレージュ・ド・フランス、エコール・ノルマル・シュペリューの 辺りを偵察飛行。途中で適当にレストランに入り、昼食。

20年前にフランスに行った時は、レストランに入るなんてことが 出来なかった。スーパーで惣菜を買ったり、ケバプの店に入って 無言の身ぶり手ぶりで注文したけれど、結局思ったものと全然違うもの が出てきたりしたものである。今は関西日仏学館通いをした お陰で、片言のフランス語と中途半端なメニューの知識ぐらいは 身に着いたし、言葉が全然わからなくても何とかなる だろうというオジサンのふてぶてしさと、この店なら色々なことが 想定の範囲内で推移するだろうと見極めてから入るというオジサンの 狡猾さでもって乗り切っている。

14時からJussieu数学研究所の講演。1時間ぐらいで終わるのかと 思っていたが、数名の研究グループによる内輪のゼミのような 感じで、たっぷり2時間やっていた。そういえば、Jussieuって、 パリ6・7大学があるところの地名だと分かった。Jussieuから 別のところに移転したけど、名前はそのまま使っているようだ。

夜は、昼食がたっぷりだったこともあって、 ホテルの隣のパン屋でサンドイッチと紅茶で軽く夕食。それから 徒歩5分ぐらいのところにある、バスチーユ・オペラ座へ 19時開演のオペラ「画家マディウス」を観にいく。まあ、オペラ は楽しいものである。開演前や休憩時間に皆がフロアでワインの飲んだり サンドイッチで腹ごしらえしたり、アイスクリームを食べたり してる時間もいいし、勿論オペラもオーケストラ、歌、舞台の演出 の総合芸術だから、わけがわからないままに面白い。

実際、わけがわからなかったのである。オペラ座のサイトにフランス語 版の粗筋が出ているが、これがすらすら読めるぐらいなら苦労しない。 Wikipedia日本版を読んだが、これまた何が何だかわけがわからず、 兎に角、どこかの権力者のお抱え画家が、カムイ外伝よろしく、 プロレタリア革命の片棒を担いでみたけれど、結局嫌になって、俺には 絵しか残っていないと悟って終わるという話かな?程度の理解(誤解?) で臨んだ。

しかし、16世紀頃の貧しい農民と領主の話のはずが、何故かナチスの 兵隊さんや戦車が出てきたりして、もうわけがわからない。ドイツ語の オペラだから言葉はわかるだろうと思ってたが、歌だから変な所を延ばして 歌うし、「要するに何が言いたいの?」と言いたくなる文学的表現も 多いし、やはりわからない。しょうがないのでフランス語の字幕に頼るの だが、それがすらすら分かるぐらいなら苦労はしない。だから、 7幕まであったけど、中身は「さっぱりわからない」ままで終わったのである。

まあ、私はわけがわからない事は嫌いじゃないし、わけがわからない ことでも好きか嫌いか、美しいか美しくないかは区別できるので、休憩1時間 を含む4時間10分の公演だったけど、楽しくすごすことができた。

2010年11月18日(木)
<<無数の扉>>
昨夜は12時前には寝入り、今朝は8時頃まで寝ていた。久しぶりに よく寝たなあって感じ。支度をして9時頃にホテルで朝食をとってから、 街に出る。午前中の目標は、バスチーユ広場を経由ですこし遠回りして パリの街を散策しつつ、Jussieu数学研究所の場所とセミナーのある部屋 の確認。直線距離で1キロちょっとだから、道に迷わなければ 遠回りしても数10分で研究所に着くはず。

セーヌ川にかかるスリー橋(pont de Sully)から立派な教会が見えたので、 明日にでも行ってみようと思ったが、後で調べたらシテ島のノートルダム寺院 だった。

パリは旧市街の中心から時計周りのカタツムリの殻のように 1区から20区までに分かれている。番号が1ケタの所は古い町並みが残されていて 結構パリっぽい気分が味わえるのだが、研究所のある13区あたりは 高層マンションが立ち並び、何となく高島平か多摩プラーザみたいな 感じ。研究所はその中の9階建の雑居ビルみたいなところのフロアを いくつか占めていた。このビルやビルの周りの雰囲気といい、何だか 大阪梅田界隈で見たような感じだ。

研究所のビルにひとたび足を踏み入れると、ああ、、、(悩ましい) 、、居ました居ました、俺だち数学者だぞ!ってオーラをびんびんに たぎらせた、いかにも賢こそうな若い兄ちゃんらが、1階のフロアにた むろしてました。そういえば、京大数理研の賢い院生やポスドクの人 たちも、彼らと同じような顔つきをしているな。

Jussieu数学研究所の建物の中は、初めて訪ねる者にとってはほとんど 迷路と言ってよい。研究分野によってAからEぐらいまでのゾーンに分か れていて、それぞれ似たような構造のフロアになっている。そして5つの ゾーンが複雑怪奇につながっていて、その間にある無数の防火扉が複雑さに 輪を掛けている。

ドイツもそうだが、フランスもやたらに防火扉があって、ウロウロしている うちに、ふと小さなフロアに出てしまう。そこには三方に防火扉があって、 その先に何があるかは扉を開けて先に行ってみないことには分からない (一応「この先Aゾーン」みたいなことが書いてある場合もあるが)。 1つは階段、1つはCゾーン、最後の1つはEゾーン。あれ?Dゾーンはこっち の方だって表示があったような気がするけど。では一体Dゾーンはどうやって 行けばいいの?それはまずCゾーンに入って、その先にさらに立ちはだかる 3つの扉のうちの1つを上手く見つけることができればたどりつけます! みたいな感じ。

まあ、慣れれば簡単なんだろうけど、最初はほとんどソ連の宇宙船 スプートニク2号に乗せられた犬になったような気分。「俺って、生きて ここから出られるのかしら?」と。よほど困った顔をしてたの だろうか、その辺の兄さんが「何か困ってないか?」と聞いてくるので、 「はい、私は兎に角この建物から出たいのです!」と訴えたら、 「この扉を開けて階段を下りてまっすぐいけ」みたいなことを教えてくれて、 やっと外に出られた。

とりあえずセミナー会場の確認をして、親切なお兄さんの助けで建物 から出て、近くのレストランを探して昼食。ドイツ・インビス(軽食)の 王者はカレー・ソーセージ(Curruwurst)だそうだが、フランスのそれは きっとクスクスに違いない。今日はチキン・クスクスを注文。そしたら 昨夜の夕食で食べたのと同じようなローストチキンが出てきた。フランスで チキンといえば、あれしかないのか?

その後、高島平の大型スーパーみたいなところに潜入して偵察。 ここでも寿司が売ってましたね。ドイツと同じでスモークサーモンが中心 で、日本の寿司に比べるとかなり単調な感じ。魚売り場は流石にドイツよりも 豊富で、鱧が一匹なり売ってたな。平目も鯖も公魚もあったな。エイなんての もあったけど、どうやって食べるのでしょう?

午後はセミナーの講演を2つ聞いて、夕方ホテルに戻る。帰りは リヨン駅を通ってきたけど、綺麗な駅なのでびっくりした。ホテルは リヨン駅から徒歩10分ぐらいのところ。胃の調子がいまひとつなので、 夜は近くのパン屋でバゲットのサンドイッチを買ってホテルですます。

2010年11月17日(水)
<<パリの夜>>
7時半に起きて支度をし、パリに向けて出発。オスナブリュック中央駅 10時前のICで3時間、13時過ぎにオランダのSchiphol空港駅に到着。 Schipholをドイツ語読みして「シップホル」だと思ってたが、 車掌は「スキッホル」と発音していたようだ。

電話がドイツを走っている間は、ドイツ語と英語でアナウンスが入り、 オランダに入るとオランダ語とドイツ語と英語になる。 それで何となく国境を越えたことが分かるのだが、窓の外を眺めて いても、建物の雰囲気が変わるのでそれとなく分かる。

Schiphol空港駅の雰囲気はフランクフルト空港駅ととても似ていて、 ホテルや航空機のチェックインカウンターに向かう通路、バス、電車 のプラットフォームが同じところに集まっているので、しばらく プラットフォームの場所がわからず、乗り換え時間は20分なので 少し焦った。乗り換えフラットフォームを確認して、大急ぎでその辺 の店を探して昼食用のピザを買う。ファーストフードみたいな顔を した店だが、注文を受けてから焼き始めるようで、私は店頭に置いて あったのを指して注文したのだが、店員がオーブンで温め始めた ので、これまたちょっと焦った。

同じ店で中国人(だと思う)が15分ぐらい待たされていたらしく、 15分もかかってるぞ!何でそんなにかかるんだ?!15分だぞ!15分! と日本人みたいな英語で激しく抗議していた。否、いくら日本人みたいな 英語でも、ヨーロッパで出会う日本人みたいな顔した連中は全部中国人 に違いない。

そういえば、昔イタリアの研究集会に出掛けた時、講演の合間の休み 時間に給仕のいるカウンターの所に並んで、順番にコーヒーやお茶を 貰うのだが、私の前に居た中国人はミネラルウオーターを注文した。 給仕が水道の水をコップに入れて渡すと、その中国人は「これは違う!」 と怒って突き返していた。イタリアの水事情のことは知らないが、 私の中で、中国人は何処に行っても猛然と何かに抗議しているという 偏見が形成されつつあるような気がする。

13時半ごろに今度はTHALYSという新幹線のような高速 列車に乗り換える。車掌のアナウンスはオランダ語、フランス語、 ドイツ語、英語の4種類だった。オランダ語って、どちらかという とドイツ語に近い感じがすることがわかった。 16時半頃にようやくパリ北駅に到着。

この前にパリに行ったのは1989年の秋なので、もう21年ぶりである。 ああ、俺、こんなに長生きするとは、思ってなかったな。そこからメトロに乗 ってバスチーユ駅に行き、駅から歩いて5分ほどのところの安ホテルに宿泊。

あのフランス革命の切欠となったバスチーユ牢獄は、今や オペラ劇場になっていて当時を偲べるものは何も残っていない。 広場の周りには沢山のカフェやレストランが あって、人々が待ち合わせをしたりして、夜も賑わっていた。 夕食はこの広場の近くで適当にレストランを見つけてすます。 実は店の前のMenuと書いた黒板を眺めていたら、店の人が出てきて 色々熱心かつ丁寧に説明を始めるし、値段も手ごろで店内で 食事をしている人も、その辺のオッサン、オバハンみたいな 感じだったので、まあよかろうと思って入ったのである。

ところで、電車の中では、最初はフランス語の動詞活用表 (ドイツ語版)や仏独対照例文を眺めていた。日本で手に入る その手の本には、必ず第一群動詞の aimer (愛する)が出てくる のだが、Langenschaft社の活用表では parler (話す)を第一群 動詞の代表として挙げている。まあ、ドイツ人ってよく喋るし、 フランス人もそれに輪をかけてよく喋るからなあ。何をそんなに 喋ることがあるんだろうか、と。

そういえば、オスナブリュック図書館の学部生やメンザの 学生も、色々喋ってますな。私も若い頃は友人と色々喋ってた ような気がするけど、何をあんなに話してたのかしら。いや、若い 人やドイツ人、フランス人に限らず、Sbuxでも上島珈琲でも、 研究集会の休み時間やパーティーの時間でも、人々はよくお喋りを している。それが私には不思議でならないな。

お喋りができるためには、自分と相手がある種の認識を共有し合って いるという信頼感みたいなものが必要である。自分がこういう事を 話したら、自分にとって好ましい形で相手は受け止めてくれるであろう という期待と言い変えても良い。そういうのって、どうやって形成すれば よかったんだったけなあ。もう忘れてしまった。

やっぱり周りが数学者ばかりという環境がいけないのかもしれないな。 「自分が喋ったことは、私にとって好ましくない形で相手に受け止められる」 みたいな思い込みが抜けないし、それが思い込みではなくて、正しい認識 であることを示す事件がちょくちょく起こるし。

活用表に飽きたら、突撃インタビューの準備本。しかし実際は ほとんどの間寝ていた。日本を離れて2ヶ月。けっこうお気楽な 外遊生活であることは否定はしないけど、それなりに緊張するところ もあって、毎日の睡眠時間がやや少なめで推移してきた。 ドイツを離れてパリに出張したら気が緩んで疲れが出たというのも、 変な話だが、まあ、実際にそうなのかもしれない。今晩は早く寝るつもり。

2010年11月16日(火)
<<素人同然>>
午前中は突撃インタビューの準備。ある理論の概要を1週間ぐらいで ざっと眺めて頭に叩き込み、本番を乗り切ろうなどという横着な勉強。 もともと全容を一通り勉強しておきたかった理論なので、この機会を 利用してやってしまおう、と。

昼過ぎ、腹が減ってきたので大学に行き、メンザで昼食。その後 研究室でコーヒーを一杯。それから図書館でまた突撃インタビューの準備。

図書館では例によって学部学生が集まって、お喋りに耽っていた。 Sbuxや上島珈琲で近くの客の会話を極秘調査しながら数学ができる 私である。連中のドイツ語のお喋りを聴きながら突撃インタビューの準備 ができないわけがない。と、わざと彼らの近くに座って聞き耳を立てて いたけど、やっぱりよく聞き取れない。

図書館から戻ったら、16時15分から1時間程度、大学院向けの 合同セミナー。今日は外部から来た講師なので、セミナーの後 に夕食会が開かれたそうだが、私は明日からのパリ出張の準備があるので、 辞退してさっさと帰宅。

ところで、私は何故数学だけはこんなに自信が無いのだろう?と昨夜 から折に触れて考えていたのだが、大学卒業後の職業人生を振り返ってみて、 大体10年ごとに専門を変えてることを思い出した。計算機科学だと2,3年 で専門家面して威張ってられるが、数学の場合だと一人前になるのに結構時間 がかかるから、10年で専門を変えるとなると、ほとんどの期間を駆け出しの 半人前状態ですごすことになる。しかも昔のことを忘れるのも早いので、 何の専門家でもない素人同然の期間が長くなる。 だから、自信がある方がむしろおかしいのだ。 今回のドイツ滞在期間中に、もう少し自信が持てるようになりたい ものだが。

明日からパリ出張。Jussieuとかいう数学研究所に潜入して、代数幾何学と シンプレティック幾何学のセミナーを聞いてくる。講演者の一人は2000年 のエッセン滞在時に一緒だった人。あの頃はまだポスドクだったけど、10年 後の今、ずいぶん偉くなってるみたいだ。

オスナブリュックに戻るの は20日夜の予定。パリのホテルでインターネットが使えるかどうかよくわか らないので、次回更新は一応20日の夜(現地時間)ということで。